~~死に向かってのイエスのインストラクションは続きます。
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=聖句=
「今、わたしの心は困惑しています。『父よ、これからの時が私に来ないように』と言おうか。しかし、私はこの時のためにこの世に来ているのです。だから、私はこの苦しみの時を通らねばならないのです」(12章27節)
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「この時」とは、激しい肉体と精神の苦痛を経て死ぬ時です。肉体の苦痛とは、鞭打たれ、手足に太い釘を打ち込まれ、十字架に張りつけられて呼吸困難に陥っていく苦痛です。精神的な苦痛とは、人間に罵倒され、からかわれ、馬鹿にされるという苦痛です。
ヨハネはこうした状況をこの「ヨハネ伝」の冒頭に概論していました。
「全てのものはこの方(イエス)によって創られた」(1章3節)。
「彼(イエス)はこの世に来ていた。そして、世は彼によって創られたのであるけれども、彼を知らなかった」(1章10節)
「彼は自分のところに来たのに、彼の民は彼を受け入れなかった」(1章11節)
~~これを具体的いえば、こうなるでしょう。
人間は、この世に来る前の、創造霊としてのイエスによって創られた被造物なのだ。創造者であるイエスは被造物の所有者であり、主なのだ。なのに、その被造物にイエスは、罵倒され、からかわれ、愚弄され傷つけられ殺されるという時を体験することになるのだ~~と。
イエスは出来ることなら、この体験の時が来ないようにしたいのです。だがこう言います。
「しかし私はこの時のために世に来ている」
自分は傷つけられ十字架死するために、それによって人類が癒され救われる道を切り開くためにこの世に来ている、という。だから、イエスは「自分はこの時を通ることになる」というのです。
イエスが十字架で殺されることによって、人類に救いの道が開かれる。これにはたくさんの論理体系が背景に埋まっています。今この段階で全てを示すわけにはいきませんが、これは「人間の霊に対する効果について」の論理である、ことには違いありません。
ですからこれは、人は肉体だけでなく霊からもなっている、という前提を「明確に」踏まえなければわかりません。この大前提を日本の信仰者の大半は、まだぼんやりとしか捕らえていないというのが鹿嶋の観察です。霊なるものに正面から対面して考えてはいないんですね。だから「十字架による救い」も漠然と理解している状態にみえます。