「ヨハネ伝解読」ここで一息ついて考えておくべきことがあります。
十字架死に向かって進むイエスが、弟子たちになす教えはどんどん深くなっていきます。
天使から悪魔に関する話にまで入ります。
そこで悪魔についても論じざるを得ないのですが、これは読者の方にはあんまり歓迎されないんですね。
この原因は、結構深いところにあります。
いうなれば、「悪魔に関する論議は福音から取り除かれる傾向が強い」んですね。おもなる理由は二つあります。
<天使論が前提になる>
一つは、悪魔論を考えるには天使論が十分吟味されていることが必要であることです。
聖書では悪魔は天使が変質した者という思想ですからね。
ところが天使というのは、通常あまり考察されてきていないんですね。
天使とはどういう存在かがはっきりしていない。必然的に、悪魔論も明確なものに成りがたいです。
そこで、まあ、そういう部分はなるべく避けましょう、とされる傾向が大きいんですね。
<対処策なしだと気持ちが暗くなるのみ>
しかし、直接効いているのは、もうひとつの理由でしょう。
それは、「悪魔についての知識には、これに対処する政策論が伴うことが必須」だと言うことです。
聖書では悪魔は、人間に不幸をもたらすのが楽しみで、うまくいったら快感を得る存在です。
だが、その中身の知識を具体的にあれれこ聞いているだけでは人は恐怖感が募り気持ちが暗くなるだけなんですね。
自然の情としてそうなります。
やはりそれにどう対処できるか、の知識がセットになって伴っていないといけない。
それが同伴していないと、悪魔に関する知識が増すほど心情的に暗くなるのみ、怖くなるのみです。
だが、確信ある打開策を見出すのは難しいんですね。
そこで、福音を語るときには、悪魔の話はやめよう、ということになりがちなんですね。
<結論だけだが・・>
だけど、12章からのイエスの教えには、「創造主・対・悪魔」という背景が明確に浮かび上がってきます。
これを避けて解読をするわけにはいけません。
そこで、何らかの対処策を提示しておかねばなりませんが、これは大仕事です。
悪魔のわざに対処するには、通常は、霊的な力が必要になります。
ところが霊力とか霊感とかいうものには、素質上の個人差があるんですね。
努力である程度いける範囲もありますけれど、限度があります。
ベニーヒンとかキャサリン・クールマンとかオーラルロバーツなんて存在は、そうたくさん出るわけでもありません。
「対処するにはベニーヒンクルセードに行きなさい」なんてのも対処策になりません。
特別に霊力に恵まれなくても、創主を信頼する個々人が自ら対処できるなにかが必要なんですね。
それを巡って全クリスチャンは一度聖書解読を本格的にやる必要がある。春平太はそう思っています。
で、鹿嶋もこれまで探求してきているんですが、まだ、不十分です。
だけどここでなにもないんでは、これからしばらくの「ヨハネ伝解読」は、読んだ人を苦しくさせるだけ、
となりますので、不完全ながらも出しておきましょう。結論のみを。
当面の結論は、
「(イエスの名のもとに)イエスの血を唱える」
~~です。
「イエスから流れ出た血を繰り返し宣言すること」がかなり有効だという証言が少なからずあります。
これをすると、その人の周囲から呪いが消散していき、また、悪しき者からの呪いがそこに入れなくなる~~という論理です。
たとえば「マクスウェル・ホワイト『イエスの血の力』オアシスクリエイト刊」、
英書では Larry Huch著,“ Free at Last”, Larry Huch Ministries刊、などがそれを記しています。
神学的な解読がもうすこし充実したら、鹿嶋もその聖句上のつながりを、またここに書きたいと思っています。
<病気も神様が与える?>
ともあれ、現状では、語られるほとんどの福音が、悪魔論をすっぽり抜いたものになっています。
それによって福音から暗さはなくなっていますが、問題も生じています。
悪魔を無いことにすると、人間に影響を与えるところの、おもなる霊的な存在は神様だけとなります
(天使も霊的存在ですが、これは創主のみ旨にそって働きますので、創主と一つにして考えていいのです)。
そうなりますと、目に見えない事象の原因を霊的に考えるとき、みな神様に持って行くことになります。
論理的にそうなるのです。
病気に関してもそうなります。
難病にかかったクリスチャンが、「これは神の与えた試練です」といっている光景をよく目にできます。
「神様は、病気も与えるの?」という疑問も出るでしょうが、
おもなる霊的な存在が神様だけだったら、論理的にそうしかなりませんから、どうしょうもありません。
だけど、「創造主は人間に病気も与えるかどうか」というのは聖書解読の上でも大きなテーマですよ。
そう簡単に結論していいものでしょうかね。
それに、この世のことがみんな神様から来るものだとすると、おかしなことも起こりやすいです。
難病の本人が「私の病気は神様が与えてくださったものです、すべてに感謝です」といってる一方で、
教会では「彼の癒しを求めてみんなで祈りましょう」なんていって、祈っている。
これでは神様も困るんでして、
「お前ら、病気が欲しいのか要らないのかどっちなんだ!」
~~~となるでしょう。
さらに、教会でみんなが彼の「癒し」を祈って、それを本人が感謝してるとなったら、これはもうオチにもなりません。
やはり悪魔論がないと、福音も矛盾を内包していくことになるんですね。
十字架死に向かって進むイエスが、弟子たちになす教えはどんどん深くなっていきます。
天使から悪魔に関する話にまで入ります。
そこで悪魔についても論じざるを得ないのですが、これは読者の方にはあんまり歓迎されないんですね。
この原因は、結構深いところにあります。
いうなれば、「悪魔に関する論議は福音から取り除かれる傾向が強い」んですね。おもなる理由は二つあります。
<天使論が前提になる>
一つは、悪魔論を考えるには天使論が十分吟味されていることが必要であることです。
聖書では悪魔は天使が変質した者という思想ですからね。
ところが天使というのは、通常あまり考察されてきていないんですね。
天使とはどういう存在かがはっきりしていない。必然的に、悪魔論も明確なものに成りがたいです。
そこで、まあ、そういう部分はなるべく避けましょう、とされる傾向が大きいんですね。
<対処策なしだと気持ちが暗くなるのみ>
しかし、直接効いているのは、もうひとつの理由でしょう。
それは、「悪魔についての知識には、これに対処する政策論が伴うことが必須」だと言うことです。
聖書では悪魔は、人間に不幸をもたらすのが楽しみで、うまくいったら快感を得る存在です。
だが、その中身の知識を具体的にあれれこ聞いているだけでは人は恐怖感が募り気持ちが暗くなるだけなんですね。
自然の情としてそうなります。
やはりそれにどう対処できるか、の知識がセットになって伴っていないといけない。
それが同伴していないと、悪魔に関する知識が増すほど心情的に暗くなるのみ、怖くなるのみです。
だが、確信ある打開策を見出すのは難しいんですね。
そこで、福音を語るときには、悪魔の話はやめよう、ということになりがちなんですね。
<結論だけだが・・>
だけど、12章からのイエスの教えには、「創造主・対・悪魔」という背景が明確に浮かび上がってきます。
これを避けて解読をするわけにはいけません。
そこで、何らかの対処策を提示しておかねばなりませんが、これは大仕事です。
悪魔のわざに対処するには、通常は、霊的な力が必要になります。
ところが霊力とか霊感とかいうものには、素質上の個人差があるんですね。
努力である程度いける範囲もありますけれど、限度があります。
ベニーヒンとかキャサリン・クールマンとかオーラルロバーツなんて存在は、そうたくさん出るわけでもありません。
「対処するにはベニーヒンクルセードに行きなさい」なんてのも対処策になりません。
特別に霊力に恵まれなくても、創主を信頼する個々人が自ら対処できるなにかが必要なんですね。
それを巡って全クリスチャンは一度聖書解読を本格的にやる必要がある。春平太はそう思っています。
で、鹿嶋もこれまで探求してきているんですが、まだ、不十分です。
だけどここでなにもないんでは、これからしばらくの「ヨハネ伝解読」は、読んだ人を苦しくさせるだけ、
となりますので、不完全ながらも出しておきましょう。結論のみを。
当面の結論は、
「(イエスの名のもとに)イエスの血を唱える」
~~です。
「イエスから流れ出た血を繰り返し宣言すること」がかなり有効だという証言が少なからずあります。
これをすると、その人の周囲から呪いが消散していき、また、悪しき者からの呪いがそこに入れなくなる~~という論理です。
たとえば「マクスウェル・ホワイト『イエスの血の力』オアシスクリエイト刊」、
英書では Larry Huch著,“ Free at Last”, Larry Huch Ministries刊、などがそれを記しています。
神学的な解読がもうすこし充実したら、鹿嶋もその聖句上のつながりを、またここに書きたいと思っています。
<病気も神様が与える?>
ともあれ、現状では、語られるほとんどの福音が、悪魔論をすっぽり抜いたものになっています。
それによって福音から暗さはなくなっていますが、問題も生じています。
悪魔を無いことにすると、人間に影響を与えるところの、おもなる霊的な存在は神様だけとなります
(天使も霊的存在ですが、これは創主のみ旨にそって働きますので、創主と一つにして考えていいのです)。
そうなりますと、目に見えない事象の原因を霊的に考えるとき、みな神様に持って行くことになります。
論理的にそうなるのです。
病気に関してもそうなります。
難病にかかったクリスチャンが、「これは神の与えた試練です」といっている光景をよく目にできます。
「神様は、病気も与えるの?」という疑問も出るでしょうが、
おもなる霊的な存在が神様だけだったら、論理的にそうしかなりませんから、どうしょうもありません。
だけど、「創造主は人間に病気も与えるかどうか」というのは聖書解読の上でも大きなテーマですよ。
そう簡単に結論していいものでしょうかね。
それに、この世のことがみんな神様から来るものだとすると、おかしなことも起こりやすいです。
難病の本人が「私の病気は神様が与えてくださったものです、すべてに感謝です」といってる一方で、
教会では「彼の癒しを求めてみんなで祈りましょう」なんていって、祈っている。
これでは神様も困るんでして、
「お前ら、病気が欲しいのか要らないのかどっちなんだ!」
~~~となるでしょう。
さらに、教会でみんなが彼の「癒し」を祈って、それを本人が感謝してるとなったら、これはもうオチにもなりません。
やはり悪魔論がないと、福音も矛盾を内包していくことになるんですね。