~~もうひとつ「ヨハネ伝」いきますが、留意したいことがあります。
12章からのイエスの言葉は、独立したバラバラの聖句として読んだら解読が浅薄になります。これからは言葉が出る背景を常に意識に留めて読まねばなりません。
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11章で、イエスは、ラザロという青年を、死んで四日たってから生き返らせました。四日という時間は、もしかしてラザロは仮死状態だったのでは・・・、という疑問を完全に断ち切るものでした。死体が腐って悪臭を放つ時間ですから。これを生き返らせたということで、イエスの持つ力への人々の信頼は決定的になりました。
しかもこの事件は都エルサレムの近郊で起きました。遠くガリラヤ地方で起きたのなら都に噂が達するまでに情報は曖昧さを増すでしょう。ところが近郊ですから、その噂は濃厚なリアリティを持ってエルサレムに参拝する人々に広がりました。
もう、イエス人気は鰻登り、イエスの名はローカルブランドから一気に全国ブランドになりました。ユダヤ教信徒だった人々の多くも、イエスに向かって殺到します。ここにきて体制側のユダヤ教僧侶たちはイエスを殺そうという決定を下さざるを得なくなりました。
イエスは一旦エルサレムから離れた地に退きます。が、まもなく一転して殺意に充ちた都に向かって進み始めました。いよいよ死ぬ時が来たと判断したのです。
弟子たちはこれから先生イエスの死に直面するようになります。その時のための教えをイエスは弟子たちに向かって始めているのです。12章以降のイエスの言葉は、そういう性格のものです。「肉体のいのちよりも、霊のいのちを重視するんだよ」も「いまはとにかく私に従うんだよ」も、そういう背景のなかでイエスが語った言葉です。
今回もその背景を意識において聖句を解読していきましょう。
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=聖句=
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前回の続きです。聖句も同じです。
前回「イエスに仕えようとするものは、イエスに従わねばならない」という聖句を考えました。今回はまず、その次の「わたしの居るところに共に居るだろう」という聖句を考えましょう。これは~~
「(私に従えば)、その人は私が本来居るべきところである天国に、私と共に居ることになる」
~~という意味だと思われます。イエスはこれから殺され、復活して天の創主王国に戻ります。そこに、自分に従う者たちのための家を整えておく、と約束しています。これからそれが実現されていくことを言っているのでしょう。
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では次の~~
「私に仕える全ての人に父は栄誉を与える」
~~はどうでしょうか。
これは「その天国で、その人は父なる創造主から賞を与えられるだろう」という意味だと思われます。栄誉は英語ではオナー(honor)となっています。
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栄誉って何でしょうね。栄光とどう違うでしょうね。さらにそれは、いのちというのとどういう関係にあるのでしょうか。わかったようでわからないところですね。そのくせ、こういう言葉は、頻繁に出てくるんですね。
春平太は、こう理解しています。源は「いのち」というエネルギーであると。このエネルギーが全ての「力」のもとでもある。そして、そのエネルギーはまた、光を放っている。その光が栄光(Glory)です。
これは物質の光とは違う。それは、光子(こうし)という素粒子が走ることによって出来ています。一秒間に地球を七回り半する、という光は、この素粒子の光です。それが地球から宇宙の果てまで行くのには750億年から1000億年の時間が必要だとも言われています。素粒子は聖書の思想では被造物です。光子(こうし)は被造の光です。
ところが栄光という光は、その空間を一瞬にして通過する。これは被造物としての光ではなく、創主から直接発せられるいのちエネルギーを伴った、いわば創造の光です。いのちエネルギーの光といってもいい。そういう概念のものです。
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栄光の光は、肉眼には直接は見えません。しかし、霊は認知します。人に関しての根アカ、根クラというのは、その光の多い、少ないを感知しての言葉ではないかと思われます。目には見えなくても、人(の霊:潜在意識)はそれを根底的な明るさ、暗さとして感知するというように・・・。
そして、単なる物質の明るさを超えた、何か、根底的な明るさに対しては、人は賞賛したくなるようです。暗さ、闇は賞賛しません。つまり、栄光のあるところは賞賛される。その賞賛が栄誉です。グローリーあるところにはオナーが伴うといったところでしょうか。
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以上を端的に言えばこうなるでしょう。いのちは力であり、光(栄光)であり、また、栄誉でもある、と。いのち、力、栄光、栄誉は本来同根で一つなのだ、と・・。すると、イエスに従った人は、天国で、あたらにいのちを受ける。
(これで人は、霊のいのち充電が完全になるのかなあ、と鹿嶋は思っています。天の創主王国に入れられるかどうかが決められる「最後の審判」では、イエスを信頼した人の霊はまだ不完全充電なのです。これが「覆われて」完全と「みなされて」王国に入るのですから。)
(入ったときには「みなし完全充電」。それがこの栄誉を受ける段階で、賞としていのちを受けて完全充電されて、文字通りの完全になり、一人前になるのかなあ・・と)
~~すると、いのちは栄光に輝き、人々はそれを栄誉と感じるのだ、ということになります。
なお、聖書の思想では、「いのちエネルギー」は父なる創主から放射されています。そしてイエスと聖霊はその意識が創造主と同質ですから、この両者を通しても放射されます。結果的にはそれはイエスから発していることにもなるのです。
だからイエスもまた、いのちであり、力であり、栄光であり、栄誉である、ということになるでしょう。「わたしはいのちである」と言ったイエスの言葉も、そういう点から理解することが出来るでしょう。
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(この聖句は、別の解読も出来ます。栄誉を文字通りの「何かの賞(ほうび)」と解するのです。天の王国には、イエスを「信頼」するだけで入れますよね。ところが「仕えた」人は、それを超えてイエスの言葉に従って「働いた」ひとです。この「働き」に対しては、別になにか賞が与えられる、と解します。)
(この解読には、栄誉は賞としてもその「賞」というのがなにかはっきりしない、という短所はあります。が、他方において、パウロの「賞を目指して走る」という旨の言葉とうまくつながるという長所もあります。みなさん各々考えて、ご意見をどうぞ)
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