~~図は「罪が三重の構造を持っていること」を示すもの~~
(出所:鹿嶋春平太『聖書のことがよくわかる本』中経出版)

エホバは十戒をモーセに与えることによって、「罪」というものをユダヤ人に導入しました。
しかし、それは「罪」の全てではなく、部分的、表層的なものです。
内容的、本質的なものを提示することは託されていませんでした。
今回は、それを考えましょう。
(これまでに春平太は、罪を許す権限について考えました。エホバにはその権限は託されていないだろう、と申しました。本日のところはそれにも関連しています。その詳細は、別に機会があれば述べたく思っています)

<「罪」は多義的な概念>
聖書での罪の概念は、複雑になっているのです。
図式的に考えますと、それは、三重構造になっているように思われます。
(図を参照してください)
総合的に見ますと聖書では罪と言っても、3つの意味が使い分けられています。
図の一番奥にあるのが、原罪です。
これは創造主から意識をそらすことでもって、いのちエネルギーが十分に霊に吸収されなくなっていることです。
アダムとイブが悪魔の誘惑に載せられて、創主が食べてはならないと命じていた知恵の木の実を食べることによってなされました。
こうして霊のいのちエネルギー充電度が不完全化しました。
そうすると、霊は人の思い(意識)の源ですから、不完全な思いが生じてきます。
不完全、つまり、創造主の意識と協和しないような思いが混じって出てくるようになるのですね。これは創主から見て「よからぬ思い」です。
これが第二層の「思いの罪」です。
創主から見て「よからぬ思い」が心に生じるようになりますと、そのあるものが行動に現れてしまいます。
注意、反省はしていても、気を許すと行動に繋がってしまう。
これが「行いの罪」です。

<原罪>
この構造から、「原罪」(oroginal sin)という言葉の意味も浮かび上がってきます。
これは「思いの罪」「行いの罪」の源になっています。
その意味で原罪なのです。
もう一つは時間的に見ての意味です。
アダムとイブが犯した罪は、全ての罪の歴史的な出発点になっています。
その意味でもオリジナルな罪なのです。
<十戒が戒める罪は>
このように罪は複数の意味を持っています。
すると、「罪を許す」という場合も、その各々について考えることが出来ることになるでしょう。
が、それは後の課題として、ここでは、エホバがモーセに教えた罪(旧訳聖書での罪)を見直してみましょう。
旧訳の罪は、詳細に言えば、「律法書」と言われている書物に記されている全ての罪です。
けれども、代表的にはシナイ山でモーセに与えた「十戒」(10の戒め)に反することです。
そこでこの10の戒めを眺めてみますと、ほとんど全てが、「行い」に関して戒めていることがわかります。
ただ一つ、最後の10番目の「他人のものを欲しがるな」というのが、「思い」を戒めているようです。
が、これとて、「他人のものに手を出すな」という行為への戒めにまたがったようなニュアンスを感じることが出来ます。
このことからわかりますように、エホバが戒めているのは、「行いの罪」にほとんど集中しています。

<律法を完全な形で与える人はイエス>
では、他の罪はどのようにして聖書に現れるか。まず「思いの罪」、これはイエスが直接言葉で語る形で現れています。 「女を見て、姦淫の情を抱けば罪を犯したことになる」という主旨の教えをイエスはしています(マタイによる福音書、5章27~28節)。これによって我々は(新約時代の)、罪には「思いに関するものもある」ということを学ぶわけです。
イエスはこれを、旧訳聖書だけを学んできたユダヤ人に言っています。彼はまたそのとき「私はこの世に律法を・・・・・・完全化しに来たのだ」とも言っています(マタイによる福音書、5章17節)。ということは、従来のものは不完全だったということになりますよね。
要するに、従来ユダヤ人たちは、罪と言えば「行いの罪」だと学んできたワケです。そういうユダヤ人たちに、イエスは新しく「思いの罪」を導入した。そしてこれが「律法を完全化すること」だというのですから、従来のものは不完全だったという道理です。
それによって、エホバには「行いの罪」だけを人間に教えることが託されていた、ということが浮上してきます。
イエスはそういう自分を「私が道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネによる福音書、14章6節)といっています。「私が真理である」というのは、わたしがこれまでたとえでもって影絵のようなものとしてしか示されてこなかった真理を明るみに出すのだ、という意味をも持っているわけです。

(出所:鹿嶋春平太『聖書のことがよくわかる本』中経出版)

エホバは十戒をモーセに与えることによって、「罪」というものをユダヤ人に導入しました。
しかし、それは「罪」の全てではなく、部分的、表層的なものです。
内容的、本質的なものを提示することは託されていませんでした。
今回は、それを考えましょう。
(これまでに春平太は、罪を許す権限について考えました。エホバにはその権限は託されていないだろう、と申しました。本日のところはそれにも関連しています。その詳細は、別に機会があれば述べたく思っています)

<「罪」は多義的な概念>
聖書での罪の概念は、複雑になっているのです。
図式的に考えますと、それは、三重構造になっているように思われます。
(図を参照してください)
総合的に見ますと聖書では罪と言っても、3つの意味が使い分けられています。
図の一番奥にあるのが、原罪です。
これは創造主から意識をそらすことでもって、いのちエネルギーが十分に霊に吸収されなくなっていることです。
アダムとイブが悪魔の誘惑に載せられて、創主が食べてはならないと命じていた知恵の木の実を食べることによってなされました。
こうして霊のいのちエネルギー充電度が不完全化しました。
そうすると、霊は人の思い(意識)の源ですから、不完全な思いが生じてきます。
不完全、つまり、創造主の意識と協和しないような思いが混じって出てくるようになるのですね。これは創主から見て「よからぬ思い」です。
これが第二層の「思いの罪」です。
創主から見て「よからぬ思い」が心に生じるようになりますと、そのあるものが行動に現れてしまいます。
注意、反省はしていても、気を許すと行動に繋がってしまう。
これが「行いの罪」です。

<原罪>
この構造から、「原罪」(oroginal sin)という言葉の意味も浮かび上がってきます。
これは「思いの罪」「行いの罪」の源になっています。
その意味で原罪なのです。
もう一つは時間的に見ての意味です。
アダムとイブが犯した罪は、全ての罪の歴史的な出発点になっています。
その意味でもオリジナルな罪なのです。

<十戒が戒める罪は>
このように罪は複数の意味を持っています。
すると、「罪を許す」という場合も、その各々について考えることが出来ることになるでしょう。
が、それは後の課題として、ここでは、エホバがモーセに教えた罪(旧訳聖書での罪)を見直してみましょう。
旧訳の罪は、詳細に言えば、「律法書」と言われている書物に記されている全ての罪です。
けれども、代表的にはシナイ山でモーセに与えた「十戒」(10の戒め)に反することです。
そこでこの10の戒めを眺めてみますと、ほとんど全てが、「行い」に関して戒めていることがわかります。
ただ一つ、最後の10番目の「他人のものを欲しがるな」というのが、「思い」を戒めているようです。
が、これとて、「他人のものに手を出すな」という行為への戒めにまたがったようなニュアンスを感じることが出来ます。
このことからわかりますように、エホバが戒めているのは、「行いの罪」にほとんど集中しています。

<律法を完全な形で与える人はイエス>
では、他の罪はどのようにして聖書に現れるか。まず「思いの罪」、これはイエスが直接言葉で語る形で現れています。 「女を見て、姦淫の情を抱けば罪を犯したことになる」という主旨の教えをイエスはしています(マタイによる福音書、5章27~28節)。これによって我々は(新約時代の)、罪には「思いに関するものもある」ということを学ぶわけです。
イエスはこれを、旧訳聖書だけを学んできたユダヤ人に言っています。彼はまたそのとき「私はこの世に律法を・・・・・・完全化しに来たのだ」とも言っています(マタイによる福音書、5章17節)。ということは、従来のものは不完全だったということになりますよね。
要するに、従来ユダヤ人たちは、罪と言えば「行いの罪」だと学んできたワケです。そういうユダヤ人たちに、イエスは新しく「思いの罪」を導入した。そしてこれが「律法を完全化すること」だというのですから、従来のものは不完全だったという道理です。
それによって、エホバには「行いの罪」だけを人間に教えることが託されていた、ということが浮上してきます。
イエスはそういう自分を「私が道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネによる福音書、14章6節)といっています。「私が真理である」というのは、わたしがこれまでたとえでもって影絵のようなものとしてしか示されてこなかった真理を明るみに出すのだ、という意味をも持っているわけです。
