ホイッ! Sabiaさんからも掛け声がかかりました。客席からの声は、役者を乗せますね。そもそも純イメージ世界に生きることが多い鹿嶋です。瞬く間に東銀座は歌舞伎座前に心が飛んでいました。
入ると舞台には松本幸四郎。花道脇に陣取った鹿嶋は「高麗屋!」と声をかけている。と、なんと、幸四郎の顔が鹿嶋に似てきたではありませんか。そして、何時の間にやら舞台に鹿嶋春平太。客席から声、「鹿嶋屋!」・・・あぁ~いい気持ち。正月も近いことだし、まあいいか。大見得切って話を続けるぞ。
<光あれ、で光が出るって?>
聖書を開くと語るべき聖句は最初から出てきました。創世記の冒頭部分に~
「そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光が出来た。」(創世記、)1章3節)
~~とあります。これはなんじゃ? まあ、神が光りあれ、と命じたら、光が出来た、という、それだけのことと読み流すことも出来そうです。けれども、そんなことどうして神様に出来るの?という疑問を持つことだって出来るわけですね。そして、この「どうして・・・なの?」という思いを持ったときにはすでに、解読の必要が浮上しています。
(教理主義はこの願望を圧殺するのです)
<創主の言葉は現実を従わせる>
そして、そこはかとなく理由を考える中で「もしかしたら、創造主が言葉を発すると、現実の物質はそれに従うというのが聖句に秘められた奥義ではないか」というのも出てくるわけですね。で、他のところを当たってみると、ほとんど「創主が・・・と仰せられた」、つまり、言葉を発したということがわざわざ記されているんですね。
だったらイエスはどうなんだ? イエスは創造主の子、というのが聖書が提示する主張です。羊の子が羊であるように、創主の子も又創造主となるでしょう。で、イエスが不思議をなす場面を洗い出してみると、なんとここでもイエスはほとんど言葉を発してそれをなしているではありませんか。「立って歩け!」「見えるようになれ!」「起きよ(生き返れ)!」等々・・・。
ウヮァッ! ビックリしたなぁ、もう・・・。聖書って過去の出来事を軽いタッチで記録してるだけかと思ったら、個々の聖句にこんな論理が埋め込まれているとは・・。これは書こう、書こう。
・・・けど、間違いだったらどうしょう? どうってことないさ、解読に絶対の正解なんてないんだから。また、新たな方向が見えてきたら、そのとき書けばいいんだから・・・。そもそも聖句主義を理屈抜きでやってみせるのが目的だったんだから。「へ~え、こんな風に読んだっていいのか、聖書って」となればいい。こういう雰囲気が伝われば成功としよう。
鹿嶋にも不安はありました。ここぞとばかりに異端!と叫ぶ牧師さんの顔も浮かんだしね。でもこうやって自分を言いくるめて第一章が出来上がっていきました。ホントにいい加減だったんだ、今思えば。
(続きます)