鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

『誰もが聖書を』4~私的感慨を挿入~

2006年12月27日 | 著書について
                    

「創造主が言葉を発すると現実はそれに従う」というのも、「ああそうか、そういう思想か」とそれだけのものとして受けとっておくことも出来ます。だけど、鹿嶋個人にはそうではなかったな。

                    


<科学は現実に言葉を合わせる活動>

 鹿嶋はマーケティングという経済学の一種で禄を食(は)んでいるものです。聖書解読はまあ、ボランティア的にやっておりまして、本業の方に主たるエネルギーが流れがちになる。で、その経済学は、自然科学、人文科学とならんで社会科学の一分野であり、社会科学は科学の一領域であります。

 で、その科学というのは、現実を理解しようとする営みです。そのために、なるべく現実に適合するような理論を作ります。現実は多様で混沌としています。そのままでは理解できませんので、それを整理して単純化した模型を作ります。それが理論。ですからそれは現実を単純に見るための眼鏡ということも出来ます。

 その理論は、言語を連ねて出来ています。科学というのはその言語を現実に何とかうまく適合させようとする作業です。

 ですから現実実在が動くと、言葉の方もそれに合わせて動かします。それが理論の修正です。うまく修正して現実に合わせないと、その理論は妥当性がないということになります。

 そういう理論をもとに考案した政策はこの世の問題を解決することが出来ないわけです。実際そういうことが多いです。

                    

<二重構造の世界観>

 聖書を知るまで、鹿嶋は言葉と現実とはそういう関係のものだと思っていました。ところがそれとは全く別の関係も併存していた~~そう知らせるのが聖書なんですね。


 科学では言葉が現実に合わせようとして現実実在を追いますが、現実の方が言葉に従うケースもあるという。その言葉が創主から出たものである場合は、そういう関係になるんだと。

 だったら、この言葉は強烈な力を持っているでしょうし、そういう言葉を発することの出来る存在は、基本的には何でも出来るわけです。そしてそういう力を持つ存在がいてくれることは、我々人間に希望を与えます。

 我々は生きていて、どうにかしたいがどうにもならない、ということに周期的に直面します。苦しみを解決してあげられないときには、身悶えます。だがそんなときでも、この力を持つ存在が動くならば、苦しみも解決されるということになりますから。

 聖書ではこの存在に人間は祈りでもって交信することが出来る、としています。うまく交信して力の主に動いてもらえたら、問題にも解決する可能性が出てくるとという。その存在に言葉を発してもらえばいいわけです。そのとき天使が動くかどおうかはともかくとして、超自然的な力で問題は解決してしまいます。

 すごいなぁ。希望が出るなぁ~。人間の力と創造主の力、二つの力が併存して働く世界のイメージを鹿嶋に提供してくれた聖句でした。


                    


 このことも書いておきたいなあ。でも、かなり私小説的領域に入ってるなあ。ほとんど自分のために書いてる特殊状況。最初の章からそこまで突っ込んだら、やっぱりついてこられない人が多いだろうなあ。スペースがあったら後に書くか・・・。

 結局、最終の18章に何食わぬ顔して入れてみました。こんなのも追記してみたんですけど、と編集のsさんにこわごわ見せました。「いいですよ」とsさんは言いました。

                    

コメント
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