
そろそろまとめに入ります。
エホバが何者か、は単なる知的興味を満たす問題ではありません。それは新約聖書と旧訳聖書との関係をどうみるか、に密接に関連しています。
<父の言葉がすでにあるのに>
イエスは「自分の言葉は父(創造主)が語れと命じられている言葉だ」という主旨を述べています(ヨハネによる福音書、12章49節)。
キリスト教はイエスの言葉に究極の信頼を置くものですので、これは文句なく受け入れるべきです。するとイエスの言葉が、創造主の言葉だということになります。
そしてもしエホバが父なる創造主であるならば、彼から出た言葉は創主の言葉であって、それは旧訳聖書にすでに記されています。であるならば、後にイエスがあらわれて、また、父の命じる言葉を述べるというのはおかしな話になるでしょう。

<旧約と新約の関係に>
実際には、エホバから出た言葉には、イエスの言葉と必ずしも主旨が一致しないところがあります。私たちはこれまで、それを見てきました。それを考えていくと、われわれは新約の神と旧約の神との違い、および、両者の関係の問題に到ります。そしてそれはとりもなおさず、新約聖書と旧訳聖書との関係はどうかという問題にもなるのです。
だが、その問題に関しては、明白な答えが新約聖書に書かれています。イエスの次の言葉がそれです。
「あなたがた(ユダヤ教僧侶たち)は、聖書(旧約)の中に永遠のいのちがあると考えて、聖書(旧約)を研究しています。だが聖書(旧約)はわたしについて証言するものなのです」(ヨハネによる福音書、5章39節)
イエスは旧訳聖書という書物は、「わたしのことを記している」といっているのです。ところがこの書物にはイエスという名前は見あたりません。「イエスのイの字もでてこない」と表現することも出来るくらいです。
にもかかわらず、イエスのことを証言しているというのならば、それは別のいい方で比喩的に述べているということにしかならないでしょう。旧訳聖書の読み方はそういう風に読むのが唯一の正しい方法だということになります。

<新約優位の構造>
またそれは、聖書は構造的に読むものだ、と言うことをも示唆しています。そしてその構造を一口で言えば「新約優位」となるでしょう。旧訳聖書が新約に描かれたイエスのことを証言しているというのならば、そういうことになるでしょう。そうです。聖書というのは、「新約優位」の構造を持った本なのです。
すると、新約と一見矛盾するようなことを言っていても、旧約は間違っているのではない。真理(イエス)の影をたとえでもって述べている。こういうことになります。
昔、幻灯機というのがありました。幼少時にそれに手をかざして犬やウサギの形を作って遊んだ記憶をお持ちの方はわかるでしょうね。イエスの言葉に従って読めば、旧約はその影絵となるのです。
ただし、それが影絵であるということは、真理(イエス)が現れるまではわかりません。現れることによって、「エホバがその影絵を示す仕事をしていたのだなぁ」とわかる。イエスが「あのうさぎは実は影絵なんだよ。ホンモノは人の手なんだよ」と明かす。そういう構造になっています。
真理とは霊に関することです。罪の真理も、霊に関することです。旧約で祝福として示される物的豊かさと健康は、霊の豊かさ、霊の健康をという真の祝福を示唆する影となる。旧約は物的富と健康でもって霊の祝福状態を影絵でもって示していることの多い書物。こういうことになります。

<神様と思ってもいいが・・・>
エホバはそういう性格の言葉を、人間(ユダヤ人)に語っていたことになります。そしてもしこれが高位な天使であったとしても、これを神様(創造主)と思っても、全く間違いということは出来ません。
また、初心者はそれでいいのです。天使であっても創主として人間に臨んでいるわけですから、人間は臨まれたままにそのまま受け入れても完全な間違いではないでしょう。
実際、ユダヤ人たちはそうしてきました。のみならずいまでも、ユダヤ教ではそうやっています。
しかし、クリスチャンにはそれは若干の危険を含んでいます。
イエスは「父は私より偉大だ」と言っています(ヨハネによる福音書、14章28節)。
これを「エホバは万物の創造主で、旧約にはイエスの父の創造主が現れている」という判断につなげるとどうなるでしょう。
その人は、イエスよりもむしろエホバの方に真理を求めていくことになるでしょう。
そうやってきまじめな人は誠実に、どんどんと、エホバの言葉を究極の真理として吸収していきがちです。そうなったらどうなるでしょうか。
答えは、明快です。「その場合はこうなる」ということを身をもって示してくれている人々が実在していますから。「エホバの**」がそれです。彼らが配布していく小冊子では、イエスの影は薄いです。
でもこの人たちは、本当にきまじめな人なのです。論理思考を徹底させる真面目な人達なのです。しかし、大局観がつかめなかった。つかまないままで、どんどんと小局の深みに入っていくことになりました。
鹿嶋はまず、それに陥っていく人を出さない為に、この「エホバの奥義」を書きました。

<大多数にはまあ危険はなさそう>
しかし、大多数のクリスチャンには、そういう危険は少なそうなこともわかってきました。彼らは概して論理的にあまり詰めないようなのです。で、新約も正しいが、旧約も正しい、として両者をべったりと読んでいます。そして、イエスの言っていることと矛盾する聖句に突き当たると、そうなったところで「もう~、わかんなくなちゃった・・・」などといって思考を止めてしまいます。
あるいは旧約の神が「私はねたむ神」といっているのを読むと「神様がねたむなんて一寸何か変だなあ」と思います。だがすぐに「聖書は神様の言葉で、人間にはわからないところがあるのは当たり前だから・・・」と思考を止めてしまう。
彼らはこういう「論理的いいけげんさ」によって上記の危険を結果的に避けることができているように思えます。
これも一つの知恵かも知れません。本能的な知恵。そういう人々は、どのみち危険は少ないですから、エホバは神様、とやっていてもいい。まずはどうでも好きなようにやっていていいようです。

しかし、微妙な点ではやはり欠陥は生じます。それを示すのが、このシリーズを書いたもう一つの動機です。
今述べましたように旧約は直接的には、物的富と健康でもって創主の祝福を示す本です。それからストレートに知恵を学ぼうとすると、その知恵は、物的富と健康を得るための、その面での祝福を得るためのものになります。
端的に言えば、現世での処世の知恵ですね。それに気づかないのは、それを神様からの知恵だとして、権威付けして読んでるからでしょう。処世の知恵を神の知恵として随喜して読み、議論している。結果的にそうなってしまうのです。春平太はその例を日常的に見ています。
(ニッポンキリスト教はそればっかりです。大体それで生涯を送ります)
そのどこが欠陥かと言いますと、霊の論理の探求に意識が向かわないままで生涯を送ることになる点です。

それでもいいじゃないか、という人もいるでしょう。それだってイエスへの信頼、聖書という書物への信頼はあるんだから、救いは受けるんでしょう、と。
信頼ねえ~。漠然としたものでしょけどね。まあ、概して言えばそうだとしておきましょう。それを鹿嶋はあえて否定するまではいたしません。
しかし、こういう世界にいる人は、聖霊は受けられないでしょうね。聖霊のバプティスマの体験は、まず、得られない。この不思議、この奥義は、霊界の法則を知りたいと渇望して聖書に向かい続ける人だけが体験する可能性を持つからです。
そして、これを受けない人は、福音の門の内側には足を踏み入れない。門の前で、門前ならし、門前踊りをして一般人への伝道に貢献し続けることになるでしょう。
これもいいですよ。これもいいんですけどね。ほとんどがこればっかりというんではね。パワーがないんだよね・・・。
