鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.21 「人間と比較しつつ天使を(17)~~霊的真理の直接提示は託されていない~~」

2006年12月09日 | “エホバ”の奥義
                                     

前回、聖書における罪の概念は三層構造になっていることを示しました。
そうだと直接書かれているのではなく、聖句を眺めていると、そうなっていることが浮上するのですね。
それをインサイト(洞察)するのが解読です。
こういう知的作業を怖がっていたら、解読などというのは成り立ちません。

さて前回は「行いの罪」「思いの罪」に関して述べている聖句を示しました。
そして「原罪」が残りました。

この概念を直接示す聖句は聖書には現れてないいように思います。
原罪という用語も春平太は見たことがないです。どうもこれは神学用語らしいです。

 聖句で直接示されている罪とは別に、その源になっている罪、という観念は間違いなく聖書にあるようなのですね。
アダムとイブが知恵の実を食べたことによって生じた「何か」がある。
それが源になって様々な罪を生じさせた罪というものがあるはずだ。
こういういう風に聖書の論理構造を追うのが神学(theology)です。
そしてその観念に原罪という言葉を神学は作ってあげたようです。

                    

<祝福の内容がちがう>

 さて今回は、罪全般と祝福についてです。
それらの観念が、旧約と新約とではすこし違っているようです。
たとえば「出エジプト記」20章で、エホバは十戒を与えます。
これを守るべき律法として、人々(ユダヤ人)に与えます。
守らないのが罪だと罪を教えます。

そして守った場合はエホバは祝福を与えるという。
それをこう記しています。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「私を愛し、わたしの命令を守るものには、恵みを千代(せんだい)にまで施す」(出エジプト記、20章6節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この「千代にまで」ほどこす「恵み」は物質的恵みでしょうね。具体的には肉体の健康と物的な富でしょう。
霊的な恵みではない。
霊に受ける霊的な恵みは千代(せんだい)を構成する各人ひとりびとりが信頼心(信仰)によって勝ち取るものです。
先祖の功績で自動的に子孫に与えられるものではありません。

                    

ところがイエスになると、祝福の観念が変わってくるんですね。
彼は~~

 「悲しむものは幸いです。・・・」(マタイによる福音書、5章4節)

  ~~なんてことを言い出します。
悲しむのは物的、健康的な祝福がないから悲しむのですね。
これはエホバにおいては、「よくないもの」です。祝福でなく呪いを受けている状態です。
 
 ところがイエスはこれを幸いだという。
こういうことは、この悲しみが契機になって別の恵みを得られる場合にしか言えないことでしょう。
で、物的、健康的な悲しみとは別の次元での恵みといったら、聖書の思想ではもう霊の恵みしかないですよね。

 そして本物の恵みとは、実はこの霊の恵みだったということが、後にイエスによって明かされます。
こういう枠組みから診ると、エホバには霊に関する真理を人間に直接的に提示することは
託されていなかった、といえそうです。

                    


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする