鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

米国への無知を正す 9

2015年02月14日 | 米国への無知を正す





人間は科学をもってしては、究極の理論知識(真理)に至ることは出来ない。
前回それを確認した。

そして聖書を通してのみ、そこに至る希望があることをみた。

・・・これは少なくとも中世以来の、欧州社会の大前提(常識)となった。

この希望をとりまいて人が集まる場が教会である。
教会は社会のありかたを規定し、国家のあり方、その運営方法にも影響を与えていく。

・・・このあたりについては、カトリック教団も聖句主義者の教会も同じ見解だ。

だが、その教会の運営方法は対極的だ。





<カトリック方式>

カトリックは、一般信徒は無知なので、聖書の解釈を自由になどしたら、教会は分裂してしまう、と考える。
それが蔓延したら、社会も国家もバラバラになってしまう。
だから、聖職者の方から統一的な解釈を与え、それでもって統率して行かねばならない、と考える。

またそれ故、解釈を自由にさせている聖句主義教会は、社会をバラバラにする無政府主義者養成所のようなものだ、と危険視する。




<バイブリシスト方式>

他方、聖句主義者はそんな心配は要らない、という。
教会員がスモールグループに分かれて聖句を自由吟味すれば、教会員の知性は成長する。
その結果実際にはメンバーの間で多くの合意がえられていく。

そのグループのリーダーたちが連携することによって、教会全体の一体性は柔軟に保たれていく、と考える。

もちろん、軍隊などのように上からの規律と命令でもって統率し、一体性を形成するほうが目的に効率的に沿う集団もある。
そのことについては、バイブリシストは否定をしない。

だが、こと聖書の中に真理を見出していくというような知的活動に関しては、成員の思考を自由にして自発的に連携させた方が、何倍もの成果がえられる、と考える。
そして、国家もその思想で設計し、運営して行くことが可能だとするのだ。




<二大エネルギーの衝突を含みつつ>


聖句主義者の数も膨大だった。
だから欧州史の底流には、この対極的な二派の思想的エネルギーの衝突が続いていたことになる。

そして、話は飛ぶが、その争いの決着が、米国大陸において、バイブリシストの勝利となってついた。
彼らの思想と方式が新国家の構造に結実した。

・・・鹿嶋はいま、そこにいたるまでの過程を説明しようとしている。
物語はこれから、宗教改革の時代に入る。

+++

ヨーロッパ中世には、上からの既成派であるカトリック側が、自由連携派の聖句主義者を圧倒し続けた。
ボクシングで言えば、聖句主義側を青コーナーに追い込み、ストレート、アッパーなどの乱打を続けた。
今の若者言葉で言えば「ボコボコにし続けた」のである。




<ルター宗教改革を起こす>

だが、「祇園精舎の鐘の音には諸行無常の響き」がある。
この世の政治権力が永遠に続くことはない。

1517年、ルターの宗教改革運動が勃発した。
ドイツの諸侯たちは、ルターを支持して自らの領地内にルター方式の教会を造っていった。

カトリック教団は、これをつぶしてしまわねばならない。
つぶさないと、彼らの欧州一円支配に穴が空いてしまうのだ。

教団の軍隊の主力は、強国フランスとスペインの軍によって構成されていた。
彼らは、これを用いて、何としても改革勢力を撲滅しようとした。

だが、ドイツ諸侯の抵抗もつよく、宗教戦争は長期化した。




<英国にも宗教改革が勃発>

このとき、海の向こうの英国でも宗教改革が勃発した。
国王ヘンリー8世が、ドイツでなされている戦の機会を捉えた。
王は突然、それまで国教だったカトリックの僧侶たちを追放し、そして新しい国教会、英国国教会を設立した。
もちろん、カトリック教会はお払い箱だ。

カトリック軍はドイツでの反乱の鎮圧にほとんどの勢力を使っていた。
海の向こうにわたって、この謀反をつぶしてしまう力は残っていなかった。

こうして、カトリックの欧州一円支配体制は、まず、英国であっけなく崩れた(1534年)。
ドイツでその支配体制に風穴が空くのは、その後のことである(1555年)。




<聖句主義抑圧体制が弱まる>

英国で国教会が出来ると、この地での聖句主義者への迫害は突然ゆるやかになった。
従来国教だったカトリックの僧侶たちは、取り締まりのプロだった。
彼らの探索と追求は緻密かつ執拗で陰湿だった。

だが、突然国教会の僧侶を始めた教職者は、取り締まりに関してはいわば素人集団だった。
だから統制能力が備わっていないうえに、新しい国教会の諸儀式を間違いなく執り行うのに大変だった。





<草の根ネットワーク>

「英国で聖句吟味活動の抑制が急緩和した!」・・・この情報は欧州大陸の聖句主義に燎原の火のごとくに広まった。

聖句主義者はスモールグループとリーダーの連携によって、非公式ネットワークをしっかり形成してきていた。
彼らにとって、その情報パイプはいのちであって、情報はまるで、各人がメールリストを持って交信するがごとくに、速やかに共有された。

バイブリシストは、「聖句吟味の自由があるところならどこにでも移住する」という民である。
これには「イミグレ」というニックネームもつけられていた。
彼らは密かにして(無政府主義の問題児とされていたので)かつ、速やかに英国に大量移住した。




<英国人を活性化する>

バイブリシストは、迫害が激しいときにはアンダーグラウンドに潜る。
だが、緩やかになると、表に出てくる。
欧州においても、平地に教会を造ったときもあった。

権力者の宗教迫害というのは波を打つのだ。
その周期は約20年とする研究もある。

だが英国では迫害はほとんど常時おだやかだった。
バイブリシストたちは社会の地表に出て活動した。

その彼らの聖句吟味活動を見て、英国人は大覚醒を受けた。




<庶民への影響>

まず一般庶民には、その知性と活性化された精神に感銘を受けた。
そして、この活動方式を自分たちの信仰活動に取り入れるものが多く出た。

英国の首相を務めた、マーガレット・サッチャーの両親も、この活動に密かに参加しただろうと思われる記述が、彼女の自伝になされている。

雑貨屋だった両親の店に、2~3人の大人たちが密かにやってくる。
そして両親と共に聖書を広げて勉強し、また、密かに消えていく。
こういうことが毎週あった、と、彼女は記している。

これはもう、言うまでもなく、聖句吟味のスモールグループ活動である。
迫害が緩やかといえども、活動を大見得きってすることはできず、このように密かに行ったのだ。

もちろん、それによって、彼女の両親の精神と知性は急速に活性化したに違いない。
そういう知的な家庭環境にあったが故に、雑貨屋の娘が英国総理までいくことができた。

筆者は身分を言っているのではない。
一人の小売商の娘が、知的に成長してオックスフォード大学に進み、政治家の道を歩んで行くには、その家庭の知的環境が実際問題として大きな役割を果たすことを言いたいのだ。




<国教会聖職者にも衝撃を与える>


また、英国教会の聖職者、司教、祭司たちも、バイブリシストの活動の誠実さ、霊性の深さに衝撃を受けた。
彼らは、翻って、自分たちの国教会本部の教会運営を反省した。
すると、その諸制度は、世的な色合いの濃いものを含んでいることが見えてきた。

その中から、国教会の改革運動を開始するものが現れた。
もちろん、本部から抑圧を受け、懲罰も受ける。

だが、抑圧される毎に、彼らの改革志向は強くなり、行動も過激化した。
なかには、命知らずの改革運動をする聖職者も出た。

そうした彼らは外部者からピューリタンと呼ばれていった。
外部の人々の目には、彼らは「純粋な野郎たち」と見えたのである。




<ピューリタンなる名の由来>

ちなみに、ピューリタンというのはニックネームであって、この呼び名は古代・中世からある。
早くからその名を与えられたのは、他ならぬ、聖句主義者であった。
人々は、彼らの世的志向が薄く、霊的意識の濃い姿を、やはり「ピュアー」だと感じたのである。

その意味で、英国でのピューリタンは、英国近代ピューリタンと言うべきだろう。
そしてこの「ピューリタン」を日本では清教徒と邦訳している。




<分離派清教徒>

だが国家権力を背景とする国教会本部の力は強かった。
改革に携わった司教、司祭たちは追放され、職を失った。
過激なものは懲罰を受けた。

そして彼らの中から、国教会の改革は要求しないが、教会活動は自分たちが正しいとする方式でやらせて貰う、という聖職者が現れた。

信徒にも、彼らに賛同するものが出た。
彼らは分離派ピューリタン(Separatist)と呼ばれた。
国教会から分離して教会活動をする者、という意味である。

これだって国教制度からしたら、違反である。
だが、本部にたてついて改革活動をするものほどには、受ける制圧は強くはなかった。

筆者は英国近代性教徒は、この分離派ピューリタンと、先に教団改革運動をした聖職者とを区分するために、後者を改革(派)ピューリタンと呼ぶべきだと思っている。
だが、そういう用語は、当面教会史には現れていない。




<「清教徒」知識の漠然さ>

理由は、清教徒に関しては、教会史家にも漠然としてよくわからないところがあるからだ。
わからないから、ピューリタンに関して詳細に記述する用語が作れないのだ。

読者が改めに歴史教科書を開いてみると、英国のピューリタンがどうして出現したかの記述がないことに気付くだろう。

専門書でさえも、英国での清教徒は突然現れたようにしか書いていない。
その出現理由のところが穴になっている。

バイブリシズム活動の知識が皆無だからだ。
だから、清教徒が出現するゆえんに対して、全くの盲目になるのだ。
清教徒概念が明確に出来ないのは、その結果である。

+++

ともあれ、この清教徒、とりわけ、分離派ピューリタンは、これから英国史、そして米国キリスト教史に一定の役割を果たす。
それも一気に語りたいが、長くなるので、次回以降にまわそう。






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