鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

米国への無知を正す15  ~聖句主義者、アメリカ大陸に移住 ~

2015年02月24日 | 米国への無知を正す




我々は欧州からの初期の移住者たちについて、概して素朴なイメージをもっている。
無人の荒野に散在するインディアンと戦いながら、好きな場所に自由に住み着いていったというのがそれだ。

だが、実際にはまず欧州の諸国家が、陣取り合戦をしている。
各々が自分の植民地域を区画し、欧州と同じ思想、同じシステムで統治を開始している。

そこに一般人民が、移住していったのだ。

植民地はまず、今のアメリカ合衆国の東海岸地域とその周辺につくられた。
当初植民地を所有した国は、スペイン、フランス、オランダ、英国だった。
この時代は王権が強く、植民地の所有者もまた本国の王様であった。

その後、植民地争奪の戦争が起き、英国が最終的勝者となった。
英国王はほとんどの土地の支配権を手にし、それを13の植民地に分けて統治した。




<三種類の植民地>

植民地はみな総督(ガバナー)と議会を持つ統治体になっていた。
これらは統治様態によって三つに分けることが出来る。


<領主植民地>

領主植民地は、植民地運営を志す英国貴族が英国王から勅許状をいただいて経営する植民地である。
初期にはニューヨーク、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージア、ペンシルヴェニア、デラウェア、メリーランドがそれだった。

彼らは勅許を与えられると当該地域の領主となって、総督(ガバナー)を任命して経営を委任し、他方で参議会議員を任命した。


<王領植民地>

王領植民地は国王の直轄領地であって、国王は直接に総督と参議会議員を任命した。
初期にはマサチューセッツ、ニューハンプシャー、ニュージャージー、バージニアの四地域がそれだった。


<自治植民地>

自治植民地は、植民地住民が総督と議会議員の選出に参加できる植民地である。
初期にはコネティカットがそれであり、後に認可されるロードアイランドもそうなっていく。

ちなみに後の1774年~独立戦争直前~マサチューセッツ(王領)植民地に総督と議員を住民選挙で決めることが認められ、ここも実質上自治植民地となる。




<最初の大量移住者は聖句主義者>

植民地では農地を耕す農民や日常品を生産する手工業者が必要だった。
これが本国で募集され、応募して認められたものが当該領有地に運ばれた。

一般人の主要な移住方法はそうであって、 この最初の大量移住者が聖句主義者だった。

新天地に夢を抱く人には、一攫千金をねらったベンチャー事業家もいた。
彼らもまた先駆的にアメリカ大陸に向かったが、数の上で多くはなかった。
また「一儲けして母国に帰ろう」という人種だから定住者にはなりえなかった。

英国一般市民の移住志向は強くなかった。
彼らは本国で迫害を受けることもなく、生活を送れている。
そういう人には見知らぬ土地への移住は魅力的ではないのだ。

早々と移住に踏み出す大量集団は聖句主義者以外になかったのである。
具体的にはそれは、英国近代バプテストとメノナイトだった。




<英国近代バプテストは東海岸と南部に>

バプテスト聖句主義者は南の領地を選び移民していった。

一般に南寄りの地域は冬が過ごしやすいし農業も容易である。
だから米大陸でも、早期の移住者が南の地域に住み着き、後の人が徐々に北の方に住んでいくことになる。

バプテスト聖句主義者が南部に住み着いたのには、もう一つ理由があった。
英国の近代バプテストは、アメリカ植民地に聖句の自由吟味活動が違法とされなくしてできる国の建設を夢見ていた。

彼らが多く住んだ地にはニューイングランドが含まれていた。
ここは大西洋沿岸の地域で、初期の政治活動の中心地だった。

彼らはバプテストと気づかれないようにして渡航したといいう。
数が多いと気付かれやすいので、少数に別れて移民登録し、他の渡航者に紛れ込んで乗船した。
当時聖句自由吟味活動は非合法だったからである。

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宗教活動が自由な国家が成るには、大枠として三つのステップが必要だった。

第一に、アメリカ植民地を独立国家にする。

第二に、その国に憲法を制定して法治国家にする。

第三に、憲法の中に信教自由の条項を確定する、この三つだった。

実際、彼らはそれを実現していくことになる。




<メノナイトは米加国境地帯に>

もう一つの大量移住聖句主義者グループ、メノナイトはバプテストとは対照的に北方の地域、それも西寄りの、現在のアメリカとカナダの国境の両側あたりに集中的に移住した。
これらの地はまだ植民地として運営されていなかったはずである。

今ではアメリカ側に住む人の数が多く、ノースダコタ州、アイダホ州、ワシントン州、オレゴン州などにメノナイトの教会がたくさんある。




<法定教会に登録される>

当時聖句主義者以外の欧州人は、国は国教をもつべきという思想に何の疑いも抱いていなかった。
だから王領植民地も領主植民地も公認教派の法定教会をおいた。

自治植民地も自分たちの法定教会を置く方針だった。
本国ではイギリス国教会(聖公会)、長老派教会、メソディスト教会、組合派教会などが、運営者に希望地区での公認を申請した。

領主は申請をおおむね容認したので、一つの領有植民地に複数の教派の担当地区が併存するのが通常だった。

進出した教会は、担当地区の法定教会として宗教活動を行った。

植民地住民は自分が住む地区の法定教会に登録され、聖日(日曜)礼拝に出席した。




<植民地での聖句吟味活動>

バプテスト聖句主義者は他方でひそかに聖句吟味のスモールグループ活動を行った。

植民地の領地は広大で、教会側も詳細な監視と規制をするのは困難だった。
それ故、少なくとも当初彼らは比較的自由に集会をもっていた。

だが時がたつと発見される集会も出た。
それ故に居住地を追放された者も出た。

横になって眠れないほど全身を鞭で打たれるというケースもあった。
ただし欧州で数限りなく行われた、広場での公開火刑は新大陸ではなかった。







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