鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

米国への無知を正す13 ~教理主義教会と比較する~

2015年02月20日 | 米国への無知を正す




前回に示したスモールグループ聖句吟味会の事例を想起しながら、聖句主義教会と教理主義教会の活動を比較してみよう。

教理主義教会では教理を聖書より優先させて使う。

教理というのは聖書の中の基本的と思える聖句を選んで、それを組み合わせて造る聖書の簡易要約冊子である。




<ルター派教会の教理書>


これも実例を見よう。

いま筆者の手元に、『ハイデルベルク信仰問答』どいう題名がつけられている教理書の邦訳版がある(吉田隆訳、新教出版社)。
宗教改革で有名なマルチン・ルターが創始したルター派教会の教理書だ。

これは新書版110ページくらいの分量である。
全文をここで示すことはできないので、「目次」だけを示すと次のごとくだ。


+++++

・序   ただ一つの慰め
・第一部 人間の悲惨さについて
・第二部 人間の救いについて
  ・ただ一人の仲保者
  ・まことの信仰・使徒信条
  ・父なる神について
  ・子なる神について
  ・聖霊なる神について
  ・聖なる礼典について
  ・聖なる洗礼について
  ・イエス・キリストの聖晩餐について
  ・鍵の努めについて
・第三部 感謝について
  ・全生活にわたる感謝
  ・十戒について
  ・祈りについて

(以上)

+++++ 


中身の文章は問答形式で書かれている。
教理書は一般信徒にわかりやすくするために、この表現方式が採られていることが多い。
タイトルの『・・・信仰問答』(ラテン語のカテキズムの邦訳語)はそれを表している。




<隙間聖句の吟味も赦さない>

他方、聖書の邦訳版は、いま筆者の手元にある邦訳聖書でみると、旧訳・新約あわせて2071ページある。
聖書の文字は小さい。
上記教理書と文字の大きさを同じにしたら、その倍近くになるだろう。

つまり4000ページくらいに相当する。
その聖書から、基本的な聖句を抽出して造った110ページの要約版がこの教理書ということになる。

+++

だから抽出に漏れた聖句はいっぱいある。
それらはいわば、教理文の「隙間」に存在する聖句である。
前回取り上げた「マタイによる福音書」5章38~48節におけるイエスの言葉もそれだ。
こんな話は、教理の中に含まれていない。

そこでこういう疑問が生じる。
教理主義教会では教理の文章は絶対正統だとする。
まあ、それは認めましょう。
だけど、教理文から漏れた隙間の聖句は信徒が自由に解釈していいのではないか~という疑問だ。


ところが、教理主義教会ではそうはならない。
一般信徒が自由に解釈すると危険だということで、解釈を赦さないのだ。

また聖職者もそれには手を出さない。
解釈して他の教職者から「異端!」と攻撃されるのが怖いからだ。

つまり、教理主義教会では結局聖句吟味は全くしないことになる。




<儀式宗教への変質>

以上で、聖句主義教会と教理主義教会との違いが今一段と浮上して来たと思う。

前述したように、キリスト教会はイエスの直接の弟子たちによって始められた。
初代教会と呼ばれるこの教会での活動の中核は、スモールグループ(後に「家の教会」と呼ばれるようになる)での真摯な聖句吟味活動だった。

そこから得られる霊的感動が、教理主義教会で儀式による情感に置き換えられていったのだ。

改めて顧みると、よくもまあここまで変質したものだ、とも思えるが、事実そうである。

+++


その状態で信徒たちは、日曜日に教会に出席し、礼拝メニューだけをこなして献金して帰って行く。
彼らはキリスト教活動とはそういうものだと思っている。

そしていまや世界のキリスト教会の大半が教理主義教会になっている。
そこで、外部者も「キリスト教会とはああいう儀式的な宗教」だと思っている。

日本では実質上、教理主義教会しか存在しないので特にそうなっている。




<専門職人の寿司店と回転寿司店>

この状態は、今日の寿司店にたとえてみるとわかりやすい。

そもそも寿司なる料理品を開発し、その味を造り上げ、普及させたのは専門職人だ。
彼らが寿司店でもって高品質な寿司を提供していた。

だが、あるとき、大衆品質の寿司を大量に造り、皿に載せ、それをベルトに乗せて流すという方法が考案された。

それは安価で一定の寿司の味を備えていたので、大衆がエンジョイし、大発展した。
その結果、寿司屋とはサラが回転している店だと思う子どもが急増した。
専門職人寿司店に連れて行ったら「(ここでなく)お寿司屋さんに行こうよ」といったという笑い話もある。



いうまでもなく教理主義教会は、この回転寿司店に相当する。

ただし、寿司のようなハード的・物的な食べ物では、ある程度再現されたオリジナルな寿司の味を、誰もが味わうことが出来る。

だが、霊的感動といったソフト的・精神的なものにおいては、人は量産品のなかに、オリジナルなものがもっていた神髄を感受できなくなる傾向が大きい。

それを見逃さなければ、この比喩は、二つの教会活動方式を識別するに役立つかもしれない。








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