鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

米国への無知を正す17  ~快男児ウイリアムズ「逃れの街」を創る ~

2015年02月28日 | 米国への無知を正す





トーマス・ジェファーソン(アメリカ独立宣言起草者。合衆国第三代大統領:1743~1826)に次の言葉がある。

「一生懸命やればやるほど、幸運に恵まれることを、私は発見した」

ジェファソンは宗教家ではないので、これは宗教的信念から出た言葉ではない。
人生の折々に彼が観察した社会事象を冷静に総合した経験則である。

そしてその経験の中には、バプテスト聖句主義者に一度ならずおとずれた幸運が多分に含まれているように、筆者にはみえる。

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ちなみに彼は早期からのバプテストウオッチャーだった。
バプテスト聖句主義者が訴えられた裁判を傍聴して「バプテストの言い分が正しい」と判断して以来、バプテスト描く国家作りに、彼は助っ人としての貴重な働きをした。

独立宣言の起草はその一つだ。

ジェファソンはバプテスト聖句主義者と共に教会活動をすることはなかった。
だが、その卓越した文章力でもって外からバプテストの援護射撃をした。




<ロジャー・ウイリアムズ>

彼の経験則を証明するような出来事が、バプテスト聖句主義者に降って湧いた。

1603年、英国のとある素封家の家に一人の快男児が誕生した。
母親の胎内にいるうちから強烈な自由精神を抱いていた、と後世に言われることになるこの男は、頭脳明晰、才気煥発で度胸もあった。

まずは素封家の息子の常として、英国ケンブリッジ大学にて神学を修めた。
抜群の成績で弁舌力にも優れた彼には、卒業前から複数のハイクラスな英国国教会の教区教会から、聖職への就任依頼が舞い込んだ。

ところがその一つに就職した彼はすぐに、問題を起こした。
ものごとを自分の心に秘めておくことが出来ない気質が、彼に説教で強烈な体制批判をさせたのだ。

本国に居づらくなった彼は、米大陸植民地のボストンに向かった。

植民地でも彼の才能は知れ渡っていた。
ボストンの英国国教会は大歓迎で聖職に迎え入れた。

ところがここでも彼は説教で国教会の腐敗を糾弾する。

そして今度は郊外にあるセイラムの教会の就任要請を受諾した。
だがそこでも彼は説教で「領主は植民地運営許可状をイギリス国王からでなくインディアンからもらうべきだった」といった類の主張をする。

ボストンの植民地議会は彼を本国に送り返そうとした。




<「逃れの街」を造る>

ところが彼は森の中に逃れ、セイラムにいる間に親しくなっていたインディアンの酋長から土地を売ってもらい、そこに住み着いた
いまのロードアイランド州の一部に当たる細長い土地である。

ウイリアムズはそこにプロビデンス(神意という意味)という名をつけ、理想とする町を建設し始めた。

この街の建設目的を彼は次のように述べている~。

「この町が良心の故に苦しめられている人々の避難所になることを私は望んだ。水面下で苦しむ同胞をみて、私は愛する友たちにこの町を贈ったのである・・・」。

ボストンを始めとするマサチューセッツ植民地の都市では清教徒(ピューリタン)が圧倒的多数派だった。
これらの町々からウィリアムズと理念を同じくする者がプロビデンスに流入してきた。
反逆者、不平分子として追放された者も多数逃げ込んできた。

ウイリアムズは彼らを暖かく迎え入れ、街が速やかに出来ていった。

彼はそこに「人民の権利と意志のみをベースにして運営される」自由政府を創設した。

政府と教会を完全に分離させ、政治的自由、宗教的自由の理念を実現した。




<植民地勅許状を獲得する>

ウィリアムズはさらに、その地を含む一帯に対する植民地勅許状を本国から得ようとした。
日本の滋賀県ほどの広さのその土地には、まだ誰にも開発特許状は与えられていなかった。

彼のプロビデンス政府は、国王から植民地設立認可状を得るべく、ジョン・クラークという医師を英国に派遣した。
クラークは実に12年間の奮闘の末、1663年、新国王に就任したチャールズ2世から勅許状を取得した。

勅許状には~、

  この地では「当人が市民社会の平安を乱さない限りにおいて、如何なる方法をもってしても、人を宗教上の見解の相違によって苦しめたり、罰を与えたり、脅して心の平安を乱したり、喚問したりしてはならない」

   ~と記した宣言も付せられていた。

これは聖句主義の望むところそのものであった。
こうして現在ロードアイランド州となっている地(マサチューセッツ州のすぐ下に位置している)に、実質上の聖句主義共和国ができたのだ。

人類類史上、画期的なことである。
アメリカ植民地が独立する100年以上も前に、こんな国が実現していたのだから。




<人類初の「信教自由」植民地憲法>

ウィリアムズはこの小さな植民地に信仰自由をうたった憲法を造った。

内容は英国教会、カトリック、長老派、組合派、メソディスト派その他いかなる教派教会の活動も禁じないというものだった。

聖句主義活動以外を認めないというのではない。、
真の信教自由とはそういうものである。

後に信教自由の原則をうたうことになるアメリカ合衆国憲法修正条項(権利章典)の内容は、ほぼこれを踏襲している。
合衆国の国家憲法が完成する一世紀半も前に、それと同質の憲法がアメリカ植民地の一つに作られていたのだ。

そしてこれは、バプテスト聖句主義者への巨大なプレゼントともなった。


  

<三界に家なし>

紀元後426年以降、聖句主義者が迫害されない世界はこの地上にはなかった。
彼らは1200年の間、文字通りの「三界に家なし」だった。
その彼らに、ウイリアムズという快男児が安住の地をプレゼントしたのだ。

バイブリシストたちほど、長期にわたって幻を追い続けた人はいない。

ジェファーソンの言葉~

「一生懸命やればやるほど、幸運に恵まれる」

~がここでも証明されていたように見えてならない。







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