鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

米国への無知を正す14 ~英国に近代バプテスト誕生す~

2015年02月22日 | 米国への無知を正す





「米国への無知を正す」といいながら、「教理主義教会・対・聖句主義」といった、キリスト教活動の違いについて長々と語らねばならない自分がもどかしい。

政治見識や陸・海・空軍の卓越した組織、武器、そして生産力・金融力などから説明できたらもっと納得されやすいのだろうに、と思う。

だが筆者は、戦前および終戦後の日本人民の貧しさを知り、米進駐軍兵士の物資の豊かさを目にした世代の日本人の一人だ。
筆者は、それらの違いの源を明確に直感した。

それは「ああ、人間が違う」であった。

この感覚は、筆者よりもう少し年上の若者も、少なからず抱いていたようだった。

たとえば数年後、いち早く米国留学の機会に恵まれた日本の青年男女は、米国の大学のカフェテリア(食堂)で、牛乳が好きなだけ飲めることに驚嘆したという。

そしてその脅威の豊かさをもたらすものも、なにはともあれ結局「人間のちがい」だと直感していたようだ。

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そして筆者はこうした人間の差を造るのが宗教であり、米国人の特質を形成しているのがキリスト教であるととも、漠然と感じてきた。

おおむね宗教には、人間に慰めを与え、生きる方向を提供し、精神を解放し活性化する力がある。

だが、筆者の見るところ、キリスト教の提供するイメージ世界は、その力においてやはり抜きんでていた。
聖書、とりわけ新約聖書のもつ人間への洞察力、罪の意識からの解放力には比類のないものがあった。

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そして、その力を探っていくと、聖句主義、教理主義という活動方式の違いを無視することができなくなった。
この二つの特質をよく認識しないことには、米国の持つ飛び抜けた明るさ、率直さ、知力、公共心等々が理解できないことがわかってきた。

だから、これは避けて通れないのだ。
そんなわけで今回も、今一歩踏みこんでいく。




<聖句主義者の影響>

聖句主義者からの教理主義教会の人々たちへの影響のおよび方には、なんとも、妙(たえ)なるものがある。

聖句主義者の雰囲気は、明るく、純真で、真摯でひたむきで、かつ、人なつこい。

彼らのそうした雰囲気は、実は、聖句吟味を通して得られる体験からきている。
究極の不変理論にタッチしたと確信したときの感動がそれだ。
この源からいのちエネルギーが湧き出で、霊にしみ入り霊魂が生き返る。

それ自体はやってみて体験しないとわからないものだから、外部者にはわからない。


けれども、聖句主義者が醸し出すその雰囲気は、教理主義者にも味わえる。

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この雰囲気に教理主義者たちは刺激された。
刺激を受けて「ああ、俺たちも教会生活をもっと心を込めて、純粋にやらなければ、ひたむきな姿勢を持たねば・・・」と思っていった。

つまり彼らは、その面から「物まね」をして行ったのだ。
そして人間の精神はこの物まねによっても、かなり活性化をするものだ。

前述した英国国教会での改革派ピューリタン、分離派ピューリタンの出現は、実はその一例だった。

同じく前述したジョン・ウェスレーも英国教会の司祭だったのに、信仰覚醒してメソディスト教会を始めた。

会衆派教会も、長老派教会の変化も、みな聖句主義活動が醸し出す雰囲気からの直接・間接の影響によって萌え出でたものだ。




<だが聖句主義方式までは行かない>

しかし、これらの人々は、教会を「教理なしで、個々人に聖句自由解釈を赦しながら運営する」というところまでは行かなかった。

もしそんなことしたら、教会は無政府主義者の群れになって、まとまりがつかなくなる・・・・そういう恐怖感が彼らにはあった。
それは、30階建てのビルの屋上から地上を見るくらいの恐怖感だっただろう。


だから彼らは「活性化した教理主義教会」に留まることになった。
英国に萌え出でた上記新教会は、みな、この性格のものだった。




<ピューリタン、聖句主義者を襲撃!>

ちなみに、後に新大陸ボストンの地で、ピューリタンが聖句主義者を激しく迫害するのもその関係である。
当時ボストンは分離派ピューリタンが集積する地になっていた。

もともと聖句主義者に刺激されて国教会から分離し、植民地ボストンにまできていた彼らだ。
ところが教理主義から脱却・飛翔するまでには至らなかったが故に、ボストンの街で聖句自由吟味活動を始めた聖句主義者たちを襲った。

人類史のなんと妙なることか。
感嘆するしかない。

これなど「アメリカの自由精神は分離派ピューリタンだったピルグリムファーザーズが創始した」という教科書的作り話を学んだものには、理解できないところとなる。
理解できないどころか、ここで目がくらくらする読者もいることだろう。

ピルグリム・ファーザーズがアメリカ建国の父というのは、真っ赤な嘘である。
このあたりについては、機会があれば後述することにして、話を戻そう。




<英国バプテストの出現>

ところが、この英国に産声を上げた聖句主義教会が、ただひとつだけあった。
バプテスト聖句主義教会がそれであって、創始したのは、イングランド国教会の司祭だったジョン・スミスである。

彼は分離派ピューリタンとなったが故に、国王ジェームス1世に国を追放され、仲間の二人と共にオランダに亡命した(1606年)。

ところがそこでメノナイト派の聖句主義者と交わりをもち、その聖句解読を聞いて目から鱗が落ちた。
彼はこれぞ福音の神髄と確信し、1609年、自ら水に沈んで再洗礼(浸礼)をした。
他の二人も続き、彼らは自分たちをアナ・バプティストと称しはじめた。




<アナ・バプテストとバプテスト>

ここでバプテストという呼び名について若干説明する必要がある。
これから語る、まことのアメリカ史にはこの名が頻繁に出てくるからだ。

バプテストの名もそもそもは聖句主義者への古くからのニックネームのひとつで、最初はアナ・バプテストだった。
アナは「再び」、バプテストは「洗礼する者」という意味である。
あわせて「再洗礼者」だ。

前述のように欧州大陸での聖句主義者の多くは山岳地帯に逃れ住んだ。
だが、彼らに接触した一般人のなかから、聖句主義活動の自由と精神性の深さに感動し、その群れに加わることを切望するものが持続的にでた。

この新参加者に聖句主義者はバプテスマのやり直しを求めた。
中世欧州の一般人民は幼児洗礼を受けてカトリック信徒ということになっていた。
聖句主義者は、これをバプテスマと認めなかった。

彼らは新参者を川に連れて行って全身をザブンと水に沈める「浸礼」をした。
川でやれば一般人の目に入る。
人々はそれをみて「あいつらはバプテスマを二度させる再洗礼者」だといった。
ラテン語でアナ・バプテストである。
そして後にこの「アナ」が省略されていった。
これがバプテストの名の由来である。




<メノナイト聖句主義者>

もうひとつメノナイトも紹介しておかねばならない。
この名は指導者メノ・シモンズ(Menno Simons)に由来している。


メノは本来裕福なカトリック教徒だった。
だが、聖句主義活動を目にして感動し、1536年にこの活動に身を投じた。
ルター宗教戦争勃発の十年後のことだ。

その彼に影響を受けて運動に加わった人々がメノナイトと呼ばれるようになった。

彼は「教会での教えをこの世での個々人の職業生活、家庭生活、日常生活のすべてに厳密に適用」することを重視した。
 これを受けた信徒は、温厚で、平和的で、法律遵守で、人徳があって、根気と我慢の強い人々の集団になった。

ちなみにこの会派の人々は、後に、カナダと国境を接する米国側の西海岸寄りの地域に移住する。
今の州で言えば、ノースダコタ、サウスダコタ、ワントン、オレゴンあたりである。




<理想国家も企画する集団>

さてスミスにもどる。
彼は英国に帰り、多くの有力者に呼びかけてバプテスト教会を開始した。
察するところ、彼のオランダ滞在中に、イングランド国教会の宗教統制は様変わりに緩和したのだろう。

スミスは英国教会の司祭だった人だ。
国教会の司教、司祭は、国王の下で人民の宗教心を担当する、国王に次ぐ権力者だ。
もちろん、地位も財産もある素封家の子弟しかなれない職位で、彼らは地域社会の指導者だった。
特にスミスは複数の書物も書く神学者でもあって、普通の司祭を超えた名士でもあった。

その彼が呼びかける人々もまた、社会的有力者や知識人が中心となる。
彼は、早期にカンファレンス(聖句主義の神学学会)まで開いて、神学方法論を論じ、教会を造っていった。

そしてこれが英国バプテストに特異な性格を形成した。
この集団は、聖書解読の自由が迫害されずに行える国家、社会の実現をも志した。
そのために社会の仕組みをどうすべきかを熱く議論する集団ともなった。

社会の有力者の思考は、自由な聖句吟味活動をひそかに個人の信仰生活で実践するだけに留まらない。
それを自由に行える国家体制設計の領域にまで展開するものなのだ。


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通常の聖句主義教会ではそうはなりえない。
活動は国家体制側から例外なく迫害されるので、地下活動的なものになる。
そういう活動には、いわゆるエスタブリッシュメントというか、現体制での社会地位を持った人にはそぐわない。
だから、メンバーはみな庶民となる。

メノナイトもそうであって、彼らは個々人が聖書の教えを職業生活、家庭生活、個人生活に厳密に適用することに価値をおいて生きる庶民だった。


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英国近代バプテストは、異例だった。


スミスは、死亡する1612年に後継者のために、信仰表明書(通常「信仰告白」と呼ばれる)も書き残している。
そこで「国家とクリスチャン信仰との分離独立(政教分離)」を明白にうたっている。

国教会の聖職者にして卓越した知識人であった人物が、こういう風に方法論を論理的に示して呼びかけるというのは、聖句主義活動には前例がないことだった。

これに社会の有力者や知識人が賛同して、指導層を形成した。
そこに数多くの一般人も参集したのが、英国近代バプテスト集団だった。




<新大陸へ!>

アメリカ大陸への移住の道が開けると、聖句主義者は真っ先に移住を志した。
ノンポリのメノナイトはカナダ国境近くの西海岸寄りの地域に移住した。

他方近代バプテストは東海岸寄りの南部地域に移住した。
とりわけニューイングランド地方には、多く住み着いた。
そこは植民地統治の中心地だった。





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