
<言葉で言えば簡単>
この連載の話の大筋は簡単である。
米国という国、特に、その超国力(スーパーパワー)を造っている基盤は自由な聖句吟味活動である~というだけのことだ。
これを知ったら、理解は完了となるのだ。
だが、この活動の中身が今ひとつ感触できない。
言葉で説明されても、漠然とした気分から抜け出せない。
それが実状だと思う。

<バイブルスタディの事例>
そこで、今回は、聖句吟味会の事例を示そうと思う。
人々が聖句の奥義に接近し、「これは真理だ!」と思える知識に比較的うまく到達していったケースを想起してみよう。
筆者は2005~6年にかけてサザンバプテスト地域のバプテスト教会に参加する機会を与えられた。
教会では聖句吟味のスモールグループにも加えて貰い、その活動の体験もした。
毎週行う聖句吟味の総仕上げは、教会の小部屋に集っての日曜礼拝前のバイブルスタディであった。
会では前の週の会の終わりに、次の週の対象聖句を決定する。
それをうけてメンバーはまず各々、個人研究をする。
そして週日に少なくとも一回は、グループでの吟味会をする。
最後に、日曜日の教会礼拝の前に自分たちの小部屋に集まる。
そこで、礼拝と同じ時間をかけて(約60分)聖句の最終吟味を助け合うのである。

<「マタイ伝」でのイエスの言葉>
ある週のテーマに選ばれていた聖句は「マタイ伝」に記録された次のようなイエスの言葉であった。
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「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを諸君は聞いています。
しかし、私はあなた方に言います。。・・・(中略)・・・あなたの右の頬を打つようなものには、左の頬もむけなさい。・・・・(中略)・・・だから、諸君は、天の父が完全なように、完全でありなさい」
(「マタイによる福音書」、5章38~48節)
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「目には目、歯には歯」というのは、旧約聖書に記されている律法(りっぽう)の中の一部であり、具体的には「殺傷事故においてはこうせよ」という創造神からの命令である。
律法は創造神(エホバ神)からモーセを通して与えられたとされていて、イスラエルの民には絶対に守るべき命令だった。
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グループメンバーは聖句を確認した。
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「しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えねばならない。
目には目。歯には歯。手には手。足には足」
(「出エジプト記、21章23~4節)
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以下、「やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷・・・」と続くその聖句に関する吟味が始まった。
鹿嶋はいまその時のメモを頼りに、討議の有様を要約的に示してみようと思う~

<「目には目」で争いは減るか>
「ゴッド(創造神)はなんでこんな命令を出すのだ?」
「おそらく人間の世を平和に保たせるためだろう。ゴッドは人類を調和のうちに存在させることを望むかただからね」
「そうか、調和(harmoniy)が平和(peace)をもたらすのだ」
「悪魔は反対に、分裂させ争わせるのを楽しむ存在という思想だよね、聖書では」
「悪魔のギリシャ語の原語はディアブロスだ。これは“分けへだつ者”という意味だから、そういうことになるね」
「ゴッドが“目を打たれたら目を打て”と命じているのも、人民に調和を保たせるためか?」
「わからんな・・・」
「こう考えられないか。・・・目を打てば、相手は目を打ってこなければならなくなる。律法は絶対の命令だからね。そこでこういう律法があると、”人を傷つけるのは危険だ、止めよう”という気持ちが増大するのではないか? すると社会には争いが少なくなるのではないか?」
「抑止力か・・・」
「そうだ、抑止力としても働くかもしれないよ、この律法は」
「だけど、イエスはここで“その抑止機能は完全でない”と言ってないか?」
「かもしれないね。 『諸君は完全でありなさい』とわざわざいうんだから・・・」
「文脈としてはそうなるな。 だけど、どうしてだ?」
「イエスの『右の頬を打つようなものには、左の頬もむけよ』というのはそれに繋がっていそうな気がする・・・」
「文脈上はね。だが、どう繋がるのだ?・・・」

<報復合戦も起こしうる>
~以下、細々となされた検討の大枠をまとめて記しておく。
・人間(A)には、感情が激するときもある。その時には、Bを打つことも起きうるだろう。
・するとBは律法の命令に従って、打ち返さねばならない。
・その時、Bの手がAの鼻も打ってしまったらどうなるか。
・もちろんAは、鼻を打ち返さねばならなくなる。
・だがその時、AがBの右の前歯まで打ってしまって、それが折れたらどうなるか。
・Bは律法を守るために、Aの右の前歯を折らねばならない。律法とはそういうものだから。
・ところがその時、Aの左の前歯まで折ってしまったらどうなるか。
・AはBの左の前歯を打たねばならなくなるだろう。
・このように、律法の「目には目を」には、報復の拡大をもたらす危険も含まれている。
・であれば、調和実現の「完全な」方法ではないことになる。
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「では、イエスの言う『右の頬を打ちに来たら左の頬も出す』行為はどうか」
「それはBが打ち返さないことだから、つまり『目には目』の報復をしないことになる。それで報復合戦は絶たれることにならないか?」
「いや、そうならないこともあるのでは? Aが勢いで、あるいは図に乗ってさらにBの左の頬も打ってしまい、Bが“おとなしくしてたらいい気になりゃがって”と反撃に出たら?」
「やはり、報復合戦になりうるな・・・」

<感触された奥義>
「だけど、そこでもういちど、Bが右の頬を出したら?・・・いや、次にも、その次にも出し続けたら?」
「そんなこと続けられたら、Aも打つ気が萎えていくだろうなぁ・・・」
「そうだ、そこで平和が来るのだよ。もう悪魔も破壊できない調和が・・・」
「かもしれないな・・・」
「かもしれないではなく、もう、そうとしかならないのだよ」
「忍耐だなあ・・。イエスはそれをいってるのか・・・」
「そうだ! そうなんだ!」
「そういうことならイエスの理論の方は完全ということになるか・・・」
~ここまできて、短い沈黙が起きた。
メンバーの胸に深い感動がこみ上げるのがみえた。
見ている筆者も、精神が覚醒された気持ちになった。
メンバーはしばし「これは奥義だ、真理だ・・」といった感慨に包まれていた。
そこでは、人の心が活性化し、浄化されていた。
「自分の利益になることをしよう」から「正しいことをしよう!」という思いに、意識の比重が移っていくのが見えるようだった。
スモールグループ・バイブルスタディではこういう果実が得られることもある。
もちろん、これが「絶対に」正しい究極の解読かどうかは、人間にはわからないだろう。
時がたてば、また、別の解読も出てくるだろう。
それであっても人の精神と「知」は活性化され、こころは浄化されるのである。

<ガンジーは奥義を使った?>
残り時間が少なくなった。
議論は雑談的になった。
「・・・この奥義って、インド独立運動でガンジーが使ったのではないか?」
「例の無抵抗運動か?」
「彼自身クリスチャンだったし、優秀な法律家だった。聖書の奥義も知っていたのではないか?」
「たしかに、デモ行進していた彼と同調者は英国兵に打たれても打たれても抵抗せずに、ただ、独立の意志を示し続けたな」
「国際ジャーナリズムがそれを世界に報じた。幸運もあったなぁ」
「幸運というか・・・アーメンだな」
「英本国の議会に、”もう独立させよう”という声が多数化し、無抵抗でもって独立がなった」
「究極の理論というのは、恐ろしい力を秘めているんだ。ガンジーはそれを知っていて使ったのだ・・・」
「知っていたかは、どうか・・・」
「私は知っていたと思うよ」
~スモールグループは、これに関連する聖句を、次週の吟味対象と決めた。
そして、全体礼拝の会堂に向かった。
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今回は、事例紹介でもって終えることにする。
バイブリシズム(聖句主義)活動に関するイメージが、読者の心の中で一歩でも具体化したら、幸いだ。
