鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

<SG用再録1>Vol.15 『身体は言葉が変化したものだった(1章14節)』

2009年01月10日 | ヨハネ伝解読
http://promises.cool.ne.jp/I_have_a_Saviour_who_lightens_my_way.html

遠くハワイのISさんからアドバイスをいただき、ネットSG(スモールグループ)を
やってみようとなりました。
最初の試みとして、過去の[ヨハネ伝解読」の下記の記事に対し、ISさんがコメントをくださいました。

これから、自由参加者が増えて、グループが出来、みんなが横に繋がることが出来たら
本当に幸せに思います。

他の記事についても、思うところのある方からコメントいただけましたら
、<SG用再録2>として、新しく掲示していこうと思っています。
こうやって、グループが出来ていくのは夢ですね。
夢にどこまで近づけるか・・・。
やってみましょう!

(以下が再録部分です)

+++++++++++++++

 ヨハネの頭はグルグルと回ります。
そうだ、あの方の教えのエッセンスは、理屈としては簡単だったのだ。

 「わたしの言葉が諸君の内に留まるようにしなさい」

 これだった。
イエスの言葉が、自分の意識の内に、霊の内に留まっていること、それがゴールだったのだ!






 それをあの方は、

 「わたしの肉を食べ、血を飲まねば・・・」

 と言われたのだ。
これは喩えではない。喩えならこんな表現になるはずがない。
事実そのものを言っているのだ。

あの方の肉、血の実体は、言葉だったのだ!



 これが、ヨハネの内で最後まで残った疑問への解えでした。
そして、この解答が、ヨハネ神学の門を開きました。

ヨハネは大胆に書き始めました。
ペンを持つ指に不思議な力が加わりました。
その一文は1章14節の聖句だったと鹿嶋は確信しています。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「言葉(ロゴス)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」
            (1章14節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


  ヨハネによる福音書は、ここを起点にしています。
 ヨハネ神学の大半は、ヨハネ伝の第1章に凝縮しています。


                    



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26 コメント

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肉と血と言の関係 (IS) (IS)
2009-01-10 11:32:18

ISです。
このチャーチをもう4年間も続けていらしゃったんですね。
これからもよろしくお願いします。

さて、じっくり読みたいなと思っていながら
なかなか実行できなかったヨハネ伝解読の降順に
アクセスしました。

教会で聖餐式を行うとき、肉を食べ、血を飲む
ということが理解できていませんでした。
比喩だということは分かるのですが、
パンを食べグレープジュースを飲むときに
すごい感動を覚えるということがないのです。

でも、先生の解説が大きなきっかけになりました。
イエス様が言であって、この肉と血は言だとすれば
食べるという行為が言(イエス様)を自分の中に
受け入れるということが理解できます。

パンとぶどう酒はそれぞれ独立しているように感じていましたが、
これはセットで捉えるべきなんですよね。
イエス様は食べるという行為をする度に
自分のことを思い出すように、と言われたのでしょうか。
私はそれでもいいな、と思いました。
返信する
サタン、恐るるに足らず! (IS)
2009-01-10 11:33:58


2009-01-10 09:02:54

前回コメントしてからいろいろ考えていました。
イエス様がことばであるということからいろいろなことに目が開かれるようで、とても興奮しています。

いろいろ書きたいことはあるのですが、混乱しないようになるべくコマめにコメントします。

以前から、目に見える世界と見えない世界があって、くっついてはいるけど別々に存在していると感じていました。
目に見える世界はこの世のことで、目に見えない世界は意識の世界になると思います。
サタンはこの世の支配者ですから、支配しているのは目に見える世界だけです。
ことばであるイエス様が王様である意識の世界にはサタンは手を出せません。
しかし、人間は基本的に肉体ですから、肉体を通じて意識が痛めつけられているわけですが。

イエス様の肉と血を食べることで、イエス様=ことばが私の肉体を支配することができるんだと思います。
(いろんな言い方ができると思いますが、とりあえず)
返信する
始まりました! (鹿嶋春平太)
2009-01-10 11:45:35
ISさんのコメントを皮切りに、スモールグループが
始まりました!

 これからどんどんいろんな方が参加してくださって、
文字通りのスモールグループになっていくといいですね。

ブログでは面と向かって行えるような
クイックレスポンスはできませんが、互いに遠くにいる発言者が繋がっていくことは出来ますよね。

みなさん、繋がりましょう!
思いついたことを自由に書いてください。
日本人のクリスチャンは少ないですけれど、横に繋がったら、
大きな力になっていきますよ!

返信する
incarnation (鹿嶋春平太)
2009-01-11 12:39:49
イエスはロゴス(言)が肉体化した存在、という
思想は、キリスト教神学では結構普及しているものの
ようです。

incarnation(受肉、肉化、肉体化)というのが、神学用語としてあるくらいですから。

+++

ただし、勉強して神学用語だけを知っているというのは、
要注意でもあります。
衒学的(学をひけらかす)になるだけという危険もあるんですね。

やはり、その論理内容を、他の聖句と連結させて理解するのがいい。
そうすると、知性も、霊も躍動します。
ISさんが、「興奮しています」と言われる状態とは、
ISさんの霊が喜んでいる状況なのかな・・・。
洗礼を受けると、霊がそういう風になるみたいです。
不思議ですね・・・。
返信する
血となり肉となる (sabia)
2009-01-11 13:38:03
春平太先生、今年もよろしくお願いします。
ただの思いつきですけど、コメントします。

「血となり肉となり」という表現は、普通によく使われますけど、まさか、ここから来ているのでしょうか?!
辞書によると、
(1)食べた物がよく吸収されて栄養となる。
(2)学んだ知識・経験などが完全に身について将来の活動に役立つようになる。
と定義されています。

単なる断片的な知識として頭の中にあるだけなら、いわゆる「論語読みの論語知らず」です。 咀嚼、反芻したり、実践していかなければ身につかないわけですね。

イエスは、みことばが血となり肉となった方です。
みことばを読むだけでなく、味わわなくては、イエスを頭で理解しているだけのことになります。 イエスを味わうためには、できれば、目だけでなく、五感すべてを働かせるのが望ましい。 わざわざパンを食べ、ぶどう酒を飲むのは、そういう象徴的な意味があるのだと考えたいです。  

みことばを味わうことはイエスを味わうこと、イエスを味わうことは命のパンを食べ、永遠の命を飲むことといえるでしょうか。
返信する
ありがとうございました。 (鹿嶋)
2009-01-11 14:20:09
Sabiaさん
 コメント有り難うございました。
返信する
いきなり奥義で (鹿嶋春平太)
2009-01-12 16:43:51
スモールグループ活動は、誰かのコメントにまた他の人がコメントする、
という形で相互知識提供がなされていくのが神髄ですが、
今回ISさんが取り上げてくださった聖句はインカーネーションを述べたもので、
これは奥義に属するところなようです。

いきなり奥義で、他の方もコメントが大変かも知れませんね。でも~

>いろいろ書きたいことはあるのですが、
混乱しないようになるべくコマめにコメントします。

~ということですので、次々に出してみてください。
他の方が「これには一言・・」と思われるものも出てくると思います。

返信する
[興奮」の中身とは? (鹿嶋春平太)
2009-01-13 05:33:55
>イエス様がことばであるということから
いろいろなことに目が開かれるようで、
とても興奮しています。

~~この[興奮」の中身を、春平太は独断と偏見でもってこう考えました。
ISさんは、福音についてこれまで多くの知識を受けてきておられます。
でも、それらには何か「もや~っ」としたところ、
漠然感が伴っていたのでは?


それらの多くが、[創主から出た言葉が肉化した存在」という知識によって、
一気に晴れたのではないか、と。
奥義とはそういうもののように思います。

+++

[イエスは創主(神)の子」といわれても
何かはっきりしないところがありました。
それが、通常の人間と違って、聖なる創造主の言葉が肉化した存在、
となれば、明確化する。

 通常の人間の肉体と全く同じな欲望を持たない肉体、
という属性も考えられてくる。
それが従来の諸知識にあったこれまでのもやもや感を解いてくれる。

この短期的プロセスが、観念(アイデア)の変化が
知的興奮を生むのではないでしょうか?

+++

人の知性は、こういう機会に最も躍動するのではないでしょうか?
 多くの謎が一気に氷解していくときに。
そして、こういう体験は、SGで自由に疑問、感想を披露して
やりとりする方法以外に、もてるでしょうか?

聖書の中身は無尽蔵です。
これを解きほぐし身につけていくための、最も効率的な手段は、
解釈自由、意見自由のSG方式、この弾力的で、民主的で、和解的な方式以外に
見あたらないのではないでしょうか?

そしてこれは、学校教育、家庭教育
(米国ではホームスクールが盛んですよね)
にも通じる真理かもしれません。

返信する
修行の身です (IS)
2009-01-13 10:46:15
ISです。
鹿嶋先生の補足で、あぁそうだったのかとすっきりしてきました。
私は難しいことを学んでいないので、常識的なことを大発見のように書いてしまうことがあるかもしれませんが、皆様温かい目で見守ってください。愛あるご指摘、ご意見はWelcomeですのでよろしくお願いします。

ヨハネの福音書の始まりはずっと惹きつけられてきた箇所です。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。1章1節」
この「ことば」がイエス様になったわけですから神様とイエス様は同一だと理解してよいわけですよね。
イエス様が神様のもとに帰られた後、この世に送られたのが聖霊ですからこれも神様と同一でいいわけですよね。
というわけで、「ことば」をキーワードにして三位一体ということが分かってきました。

ここ数年、神様(創造主)の偉大さを考えるようになりました。鹿嶋先生のブログを読むようになったのもこの辺がツボにはまったのではないかと思います。
最近特に感じるのはとても言葉や思いでは言い表せないほどの圧倒的な存在だということです。
三位一体が納得できたので、自分と神様の関係がはっきりしてきました。
創造主なる神様は圧倒的で目を上げることもできないお方。
主イエス様は親愛なる王様であり、自分のすべてを捧げて従うお方。
聖霊は目に見えないが、常にともにいて助けてくれる尊敬するお方。

現実の生活にこの思いを反映させ続けることはなかなか難しいので、一生修行の身かと思います。
返信する
血となり肉となる (IS)
2009-01-13 17:48:54
Sabiaさんのコメントから考えました。

>わざわざパンを食べ、ぶどう酒を飲むのは、そういう象徴的な意味があるのだと考えたいです。

なるほど、食べ、飲むという表現を使っていることに深い意味があると思います。

食べ、飲むということは肉体にとって不可欠なことです。そして健康な肉体には良いものを食べなくてはいけません。(ジャンクフードの食べすぎは万病の元です。)

そういえば、イエス様は食べ、飲むということをとても大切にされていたのではないでしょうか。
最初の奇跡で水を上等なワインに変えました。
一人分のお弁当を増やして何千もの人を満腹させたことがありました。
嫌われ者や罪人と言われる人たちと進んで食事を共にしました。
そして、弟子たちとの最後の親しい交わりは晩餐の時でした。

イエス様は食べ、飲むことを大いに楽しまれ、とても大切にされていたんだと思います。

食べて、飲むことと同じことが私たちの霊にも必要です。

(そうか!)イエス様は肉体である私たちに教えるために肉体の言葉で教えてくださったんですね!
返信する
マトリックス (ホビット)
2009-01-13 19:51:09
偶然手にした鹿嶋先生の本(『聖書が面白いほどわかる本』,『キリスト教のことが面白いほどわかる本』など)を読み、キリスト教って楽しそうと思い、聖書を本屋さんで買ってきた素人です。

鹿嶋先生の名前をググったらこのページに辿りつきました。

素人なので根拠のない妄想を言いますが、批判対象や叩き台(にすらならないかも)になればと思い、発言させてください。

「言葉(ロゴス)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」

この言葉を読んで、私は映画『マトリックス』を思い出してしまいました。ご覧になったことのある方もおおいのではないでしょうか。
実は我々の世界は巨大なプログラムだったという映画です。


そこで、世界は神様の一種のプログラム(=言)でできている(パソコンとかとは次元が違うでしょうが)、物理や数学の法則もその言語の一端という考えは成り立たないでしょうか。

イエス様はその神様が直接コントロールできるプログラム世界のキャラクター。

なんかゲームみたいになってしまいました。




返信する
う~ん (鹿嶋春平太)
2009-01-13 21:55:32
う~ん、
面白くなってきた!

返信する
マトリックスとみことば (sabia)
2009-01-13 22:21:15
マトリックスは、子供につき合わされて、3本とも映画を見たのですが、内容がいまいち理解できませんでした。ヒロインがトリニティ(三位一体)で、ヒーローが救世主でしたね。
映画の解説でも感想でもいいですから、もう少し語っていただけると、私としてはありがたいです(笑)
返信する
マトリックスと離れて (ホビット)
2009-01-14 00:02:09
映画マトリックスと聖書でググってみると色んなところで色んな分析がすでにされていました。

私は聖書を何も知りませんでしたので、鹿嶋先生の本を読んで、マトリックスって聖書とすごく似ているなぁと後で気付いたクチです。マトリックスが聖書を参考にして作っているみたいです。

ですので、「世界=プログラム」説は検討していただく価値はなさそうです。

オリジナルな考えは難しいですね。

ご参考までに、マトリックスのあらすじと聖書との関連の解釈は下記の上手にまとめているリンクを読んでいただけると早いと思います。
私の具体化していない漠とした考えよりずっといいです。

ex.1) 牧師さんが書いた文章
http://kingdoman777.hp.infoseek.co.jp/matrix.html

ex.2) クリスチャンの人が書いた文章
http://creative-web.hp.infoseek.co.jp/matrix.htm

ex.3) 精神分析医の人が書いた文章
http://www.kabasawa.jp/eiga/other_films/2003/matrix2/matrix2_kaidoku2.htm




マトリックスから離れて、質問ですが、次のように「言葉(ロゴス)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」という言葉を理解してもいいのでしょうか。

創主のプログラム=ロゴスがバグなく完全にインストールされている存在がイエスさま。

普通の人間は「原罪」というバグがある状態でプログラムがインストールされてしまっている。そのバグがあるのでうまく機能しない=救済されない。

そこで、きちんとイエスさまのプルグラムを再インストールすれば誰でも救われる。

イエスさまはバグのない完全なプログラムを人間が誰でも再インストールできるように、フリーウェアとしてCDのかわりにコトバ(聖書)を遺していかれた。

「異言」は再インストールによる初期化の現象。


返信する
マトリックスと離れて (IS)
2009-01-14 17:54:17
ISです。
面白くなってきましたね。

私もマトリックスの1作目はワクワクしてどんどん引き込まれました。
紹介してくださったクリスチャンの人が書いた文章と同じような感想で、いろんなことを考えてしまいました。
一番inspireされたのは霊の世界を現実の世界として見せてくれたことだと思います。ロボットたちが自由人たちを追い回す様は、「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」(ペテロ第一5:8)という箇所にぴったりでした。
そして、信じるという力でスーパーマンが誕生するあたりは感動的でした。
でもこの救世主はイエスキリストとは違うんだよな、という気持ちがありました。
牧師さんの書いた文章を読んでよく理解できました。結局は虚無主義が根底にあったのですね。どおりで2作目は面白くなかったわけです。(3作目はまだ見ていません。)
精神分析医の方が書いた、「マトリックス・シリーズは、人類の新「新約聖書」だったということである。」には到底賛成できません。「神の愚かさは人よりも賢い」(コリントⅠ1:25)からです。

つい長々と書いてしまいました。


ホビットさんの解釈、非常に斬新で分かりやすいです。ありがとうございました。
私の感覚では創主自身がプログラムになったのがイエス様というところですが、これは表現の違いでおっしゃりたいことと大体同じだろうと思います。

ただ、プログラムというたとえにしてしまうとイエス様の特質をカバーしきれないと思います。

私としては「ことば」という言葉が使われていることにもっと注目したいです。
なぜ、「ことば」なのでしょうか。

「ことば」というと、文字、会話、言語。
もっと深く考えると、意識、心、魂、そして霊まで含めることができると思います。いや、きっともっともっと深い真理があるんだと思います。

「ことば」=「目に見えない世界」というのはどうでしょうね。

異言は「ことば」と肉体の境界みたいなものかな。(うまい表現が見つかりませんでした...)
返信する
マトリックス解説 (sabia)
2009-01-14 23:08:53
ホビットさん、情報提供ありがとうございました。なかなか興味深い見方ですね。皆さん、よく考えられているのに感心してしまいました。
私もビデオを見直してみます。
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映画「ET」 (鹿嶋春平太)
2009-01-15 11:50:44
ホビットさんがくださった情報の中で、

>ex.2) クリスチャンの人が書いた文章
http://creative-web.hp.infoseek.co.jp/matrix.htm

はわかりやすかったです。感謝。
わたくし鹿嶋は、これから、映画「ET」を思い出しました。

確か1981年ころ米国で封切りされ、私、米国で家族で見ました。
アメリカの子供たちが、大きなポップコーンのカップを持って、
食べながら見ているのにはびっくりしました。

そして、いい場面でおお歓びで歓声あげたり手をたたいたり・・にも。

終了後、私は、
「この映画はイエスの物語の枠組みを用いたものだなぁ」と感じました。

決して魅力的でない風采のET(イザヤの預言参照),
天からやってくる、
癒す、
子供と精神的に同化して遠隔から影響を与える、
実験用の蛙にまで及ぶ愛の意識を与える、
社会に理解されずに追い詰められる、
死んで生き返る(復活)、
天に帰って行く・・。

あのころ、娘たちも幼かったです。
思い出しました。懐かしいです。
返信する
ホビットさんのアイデア (IS)
2009-01-15 16:43:47
ホビットさんのアイデアをもう少し吟味させていただきました。

>きちんとイエスさまのプログラムを再インストールすれば誰でも救われる。
← 真理ですね~。

>フリーウェアとしてCDのかわりにコトバ(聖書)を遺していかれた。
← フリーウェアなんだけど、正規のルートから入手しないとだめなんでしょうね。(聖書だけだと起動しない欠損コピー?)

>「異言」は再インストールによる初期化の現象。
← この表現、秀逸ですね!インストール後いつでも顕れるものだから、起動音(?)でもいいでしょうか。

返信する
聖書だけだと起動しない? (鹿嶋春平太)
2009-01-15 18:22:33
>フリーウェアとしてCDのかわりにコトバ(聖書)を遺していかれた。

← フリーウェアなんだけど、
正規のルートから入手しないとだめなんでしょうね。

(聖書だけだと起動しない欠損コピー?)

~~この「聖書だけだと起動しない」の意味がよくわからないんですが・・・。
返信する
洗礼が必要ということかな (ホビット)
2009-01-15 22:02:36
素人の考えとリンク先様の見解にコメントしていただきありがとうございます。

鹿嶋先生のETに関するコメント、「目から鱗」(笑←先生の本で聖書由来の故事成語とあったので)です。

文学系の学者さんに「欧米の文学って聖書が根っこにあるのでどうしても最後のところに手が届かない、無図痒い気がする」っていう方がいます。
「ホビット」の由来する『指輪物語』(トールキン)も聖書がバックにあるなんてききますけどETにも深く関係していることが分かりました。


ISさんの「コトバ」>「プログラム」というのはきっとそうなのだと思います。
あと、ISさんの「聖書だけだと起動しない」というコメントは「洗礼」が必要ということをおっしゃっているのではないでしょうか。

ソフトウェアをインストールしても、CDに印刷しているID番号・パスワードを入力をしないと起動しないソフトって多いですよね。
それが「洗礼」なのでは。

返信する
聖書のバプテスマ思想は? (鹿嶋春平太)
2009-01-16 11:43:35
う~ん、ホビットさん、洗礼(バプテスマ)ねえ・・。
ISさんの応答は、後でもらうとして、
このバプテスマというものに関する聖書の思想も、
吟味する余地大いにありそうですねぇ。

<命令に従えば、責任とってもらえる>

一つは、バプテスマは儀式か命令か?ということ。
どっちでもいいじゃないの、という見解も多いと思いますが、
聖句的には命令ですよね。

「父と子と聖霊の名によって、信ずるものにバプテスマを授けなさい」
というイエスの言葉が使徒行伝にありますから。
「授けなさい」というんだから命令ですよね。

これに沿うと、バプテスマを授ける人は、
「イエスの命令によって、父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けます」
と宣言してやるべきとなります。

命令に従うと宣言してやりますと、粛々と儀式としてやるのにない論理が出てきます。
「命令者が責任をとってくれるべき」となりますから。

慣習化した儀式としてやりますと、命令者の存在が希薄になり、
責任とってくれと言う言葉の重みも少なくなりますよね。

やはり、全能者に責任とってもらった方が、
安心でもあり楽でもあるでしょうね。

<滴礼か浸礼か>

バプテスマは滴礼(額に水滴を垂らす方式)ですべきか、
浸礼(全身を水に沈める方式)で、すべきか、
どちらが聖句的なのか、というテーマもありますね。

これはまた、議論が出たら吟味したらいいか。
ISさんの応答も楽しみだし・・・。

返信する
聖書だけだと起動しない? (IS)
2009-01-16 11:44:32
鹿嶋先生、質問ありがとうございます。

何か余計な事を書いたかとドキッとしてしまいました。
でもこうしてディスカッションを積み重ねて行くのですね。おかげさまでホビットさんのコメントもいただけて感謝です。ホビットさんありがとうございました。

私の意図は、聖書を読むだけでなく、イエスキリストを信じることによって救われるということです。
聖書を深く研究している無神論者の方も多いと聞いたことがあったので、インストールするには正規のルートが必要と書いてみました。
先生はいかがお考えですか。

ホビットさんが書いてくださったように洗礼を受けることにつながると思います。
いずれ、洗礼についてもこのスモールグループで深く学びたいです。

聖書に戻りますが、ホビットさんのたとえを読んで
聖書をイエス様が遺していかれた、ということに目が開かれました。
物質的には紙と文字でできた本に過ぎませんが、そこに「ことば」(=イエス様)が宿ったものが聖書ですから、イエス様が遺していったと言えますね。

ここにも「ことば」と「肉体」(=物質)の関係が示されています。

今回の学びで、私は創造主につながるためにイエス様にフォーカスすればいいんだという認識を持ちました。
それは自分が肉体だからです。
自分の肉体がイエス様とつながるとき、私の「ことば」(=霊)が創造主の「ことば」につながるのだと思うのです。

返信する
もう一本話題を (鹿嶋春平太)
2009-01-18 01:31:21
ISさん
 もう一本、話題をたててみてくださいませんか?
 ここでのテーマは、また、アイデアが出たら皆さんに追記していただくとして。

 なにか面白い過去の記事が見つかるといいのですが・・・。
 
返信する
ドキッ! (鹿嶋春平太)
2009-01-18 12:59:52
>何か余計な事を書いたかとドキッとしてしまいました。

ISさんのこのお気持ちについて、春平太には考えることありました。
これについては、別の記事でテーマをたてました。
少し理屈っぽいのですが、ご興味わかれましたらこれも出来たらSGしましょう!

4743
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久しぶりに読み返し (鹿嶋春平太)
2012-05-05 09:34:30
>創主のプログラム=ロゴスがバグなく完全にインストールされている存在がイエスさま。

>普通の人間は「原罪」というバグがある状態でプログラムがインストールされてしまっている。そのバグがあるのでうまく機能しない=救済されない。

>そこで、きちんとイエスさまのプルグラムを再インストールすれば誰でも救われる。

>フリーウェアとしてCDのかわりにコトバ(聖書)を遺していかれた。

>「異言」は再インストールによる初期化の現象。


+++

久しぶりに読み返してみました。
ブログ上でのスモールグループで出た発言です。

こんなこともしてたんですね。忘れてました。

これは~「マトリックス」という映画が清書を下敷きにしたもの~

という議論から派生して、聖書の論理をパソコンにたとえて
参加者が説明して下さったものです。

読み返して、実に再勉強になりました。
返信する
スモールグループの姿 (鹿嶋春平太)
2012-07-17 08:20:28
また、久しぶりに再読しました。

スモールグループの神髄を、事実でもって示しているのに感銘を受けました。

これは一般論的な「説明」ではとても伝えられない神髄ですね。

ISさん、日本に来られた時お会いできずに残念でした。
失望が解消したら、連絡下さいね。
今なら、ISさんの問題、対処できそうです。
当時は、なにも出来なかったのです。
返信する

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