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春平太さんの「神とゴッドはどう違うか」と出会い、大変興味深く拝読させていただいております。
そして今、折しも読書の最中、このサイトを知り、非常に手軽なコミュニケーションツールを借りて、読破していないのですが、現在の感想などを申し上げたい次第です。
・先月、友人から奨められて三島由紀夫の本を読みました。
まさか、この本で彼に触れていたとはしらなかったもので、章にその名前が記されていたときは、やや驚きました。
私は、それほどまで彼に関心がなかったので、彼について知っていることといえば、横尾忠則を通して知った程度で、あとは三島事件位でした。
そんな中、こうしてあの事件について、読み解いていくと、それをわかった気になりました。
・それにしても、どうして1960年代とか70年代ってのはあんなにも魅力的に映ってしまうのでしょう?
これは、個人的な考えかもしれませんが、
23歳の私にとって、
この時代は非常に様々なエネルギィに溢れている様に思えてなりません。
・本に戻ります。
三島氏の生い立ちが書かれているところが、
第八章の冒頭からあります。
この箇所のp.107「ともあれ~」というところから、私はこの感覚が共感できる、とでもいうか、「なんかわかる」感覚になりました。
・マズローの欲求段階説は、凄くわかりやすいモデルである、と春平太さんのメッセージを読む度に考えます。
・これらに「わかる」などの言葉を発するのも、どこかしらに追体験している節があるからでしょうか…??
・「純イメージの世界」について
春平太さんは「誰も知らない」という日本映画をご存知ですか?
これは、カンヌでヤギラユウヤ君(14)が主演男優賞を取った作品で、内容は父親が違う四人の兄弟がある日母親に逃げられ、四人の子供、とりわけ、長男がその生活を背負っていく(彼は長男役)といった実際に起こった話をモチーフに作られた作品となってます。
この作品を見ると、先ずはじめに「この映画は実際の話をモチーフに作られたお話です」という監督のコメントがでてきてから物語が始まるのですが、
私がこの作品をおもしろい、と感じた一つに
「リアリティに限りなく近い、もしかしたら現実と同等のもの」をこの作品に感じた事が挙げられます。
これは、先のコメントから、「出発点は現実にある」という認識を与えることによって、その配分が見る側によって委ねられるのではないか、と考えるからです。
例えば、現実の事柄として受け取れる部分がAさんには1割、Bさんにとっては5割…といった見方ができるといった具合です。
この映画を見た時、私の思考の一つに春平太さんから授かった「純イメージ世界」の考え方があったもので、「それでは春平太さんがこの映画をご覧になったら、如何にお思いになるだろうか?」と考えたものでした。
以上、端的なものを長々と書き連ねて参りましたが、もし、これらについて何かありましたら、コメントを頂けると、非常に嬉しいです。
それでは失礼します。
横浜の教会の山崎です。
お久しぶりですが、覚えていらっしゃいますか?
父が分かち合いたいことがあるし、連絡を取りたいと言っていました。
このサイトにはメールがないようなので、下記の
メールアドレスに一方頂けると幸いです。
yamasaki_jun@hotmail.com
このサイトの内容も興味深く読ませて
頂きました。
あいかわらず、わかりやすくかかれていますね^^
今後の活躍をお祈りします。
それでは失礼します。
三島さんは、戦後、若くして流行作家になって、いち早く世界旅行をし、西欧の「心の空洞が埋められた精神文化」を洞察されたのですね。
それで、これがないと、戦後日本の国民の心がうつろにならざるをえず、何とかしたいと願った。そのために供給する純イメージ世界を、天皇中心の神国イメージでもって形成したい、と考えた。
そして、そのイメージに現実感を与えるのに、自己の文筆能力を投入しようとしたのですね。のみならず、自らの生命をも投入された。
純真な方だったのですね。とびきりに。そのことをわかってあげられる人が、知識人と称される人々にほとんどいなかった。孤独だったことでしょう。
マ☆さんが、理解されたことは、遅ればせながら、一つの救いかも知れませんね。
コメント感謝です。
新しく開始された様子の、ブログHP拝見しましたよ。
拙文を引用して下さったようで。クリックしても春平太のHPに飛ばないのは、どうしてでしょうか?
私のトラックバックに関する、知識不足か・・・。
韓国でハングルの勉強中と聞いていましたが、続行中ですか?
お父様によろしくお伝え下さい。
ブログってことばも最近しりまして
私のほうこそ知識ぶそくでわかりません。
今はアメリカですか?
私は個人的に英語はすきなのですが
アメリカという国がいまいち苦手です。
住み心地はどうですか?
たまにまた遊びに期させていただきます。
・・・・・・・・・・・・・
・それにしても、どうして1960年代とか70年代ってのはあんなにも魅力的に映ってしまうのでしょう?
これは、個人的な考えかもしれませんが、
23歳の私にとって、
この時代は非常に様々なエネルギィに溢れている様に思えてなりません。
・・・・・・・・・・・・・
先回のご意見の中には、複数のテーマがあって、上記の点には応答できませんでした。
この時代の若者は、プロのレコード会社の作詞家、作曲家につくられた商業主義の流行歌には見向きもせず、自作のフォークを作り、歌いました。
自分たちの情熱、悩み、苦しみ、夢を歌った彼らの唄に、多くの若者が耳を傾けました。そういうエネルギーが若者にありました。
街には、いつも、フォークが流れていました。
何がそうさせたか、当時若者だった人に聞いてみるのが一番いいでしょう(春平太の青春は、その少し前の時代でした)。三島事件は、そういう中で起きました。
国民は、驚愕しましたが、その真意がわからず、しばらくしたら忘れていきました。季節はずれの花、夏の椿のようでしたね、今思えば。三島さんはさぞかし孤独だったろうと、今思う次第です。
鹿嶋春平太。
レスが遅れてしまいました!
二つもご意見を頂いて、非常に嬉しい次第です☆
>この時代の若者は、プロのレコード会社の作詞家、作曲家につくられた商業主義の流行歌には見向きもせず、自作のフォークを作り、歌いました。
>自分たちの情熱、悩み、苦しみ、夢を歌った彼らの唄に、多くの若者が耳を傾けました。そういうエネルギーが若者にありました。
今、この言葉を見て、時代背景も含め考えておりますが、
この時代には、若者個々人から発せられる「エネルギー」がそこにはいくつもあって、それが集まってあのような時代になったと考えます。
その中で、三島さんは全てをもって彼自身のエネルギーを昇華していったのでしょう。
そして、おそらく彼の発するエネルギーの強さに、彼を左巻きな人間と考えた人もいたことでしょう。
これらを踏まえて、では三島さんが例えば今の時代に居たとしても、やっぱり居づらいとでもいうか、孤独を感じるのではないだろうか…と思いました。
というのも、彼が生きていた時代に比べ、
「今はエネルギーが足りない」と思いますし、
語弊があるかもしれませんが、
「個人主義にもなってない個人主義」な風潮があるような感じがするからです。
また、この時代で彼が全てをもってエネルギーを放出したとしても、その力そのものがもっている力量が改ざんやな何らかしらの変わってくるのではないか、と考えます。
ここまで考えてきて、また歴史の勉強がしたくなってきました。
かしこ
もう一つのテーマ、「誰も知らない」という日本映画。これ春平太知りませんでした。
だから、まだ見てません。帰国して機会があったら鑑賞してみましょう。
「フォークの時代」の追加です。
これは70年代で終わりを告げました。80年代になりますと、荒井由美とか小椋圭とかの自作の唄が流行の主流になりました。
これは、まあ、日常における個人の感慨、イメージ世界を、チマチマ、こまごま、ながながと歌っただけのもので、もう目は外の世界に向けられていませんでした。
これを「何とか(名前は忘れました)フォーク」とかいって、フォークソングの分野に入れる例も多いのですが、フォークソングの神髄がわかっていない人のすることですね。
実際、この時代、若者には、60年代、70年代の熱気はなくなっていました。振り返ってみれば、この時代はあだ花のような時代だったような気もしています。けれども、懐かしいです。
前回、80年代は、チマチマ自作自演歌の時代だと申しました。
で、90年代になりますと、若者はまた戦前のように戻りました。
小室なんとか、とかいうのが、「ここをこう刺激してやったら、こう反応する」と計算して造った唄を、に若者は吸い付いていきました。
(流行歌というのは、こういう風にして造るのです。昔、造っている連中、知っていましたので、春平太はその心理よくわかります。まあ言ってみれば、大衆をバカにして造っているんですな。その方がうまくいく。)
計算丸見えの唄に飛びついてミリオンセラーにする若者たち。春平太にはアホに見えて仕方ありませんでした。今もそうです。
> これは、まあ、日常における個人の感慨、イメージ世界を、チマチマ、こまごま、ながながと歌っただけのもので、もう目は外の世界に向けられていませんでした。
これを読んで、成る程!確かに今って内向的かもしれない、と思いました。
また、
> 計算丸見えの唄に飛びついてミリオンセラーにする若者たち。
私は、特にこのような歌を好んで聞くことが少ないのですが、この「計算丸見え」感があるのはかなり幻滅します。
因みに、今年の日本の若者にかなり流行った一つとして
「アジアン・カンフー・ジェネレーション」という四人組みのロック・バンドが居ります。
丁度、好きな人が掲載されていた雑誌でついでに彼らのインタビューを読んだのですが、
このバンドのキーワードとして
「繋がりたい」
というのがあるみたいです。
また、曲的にはかなりポップで聞きやすく
(これは個人的な感想ですが)
インタビューでは、彼らの対象は、やや低めの年齢層(ティーンはじめ)であったと記憶しております。
思うに
現代において「繋がりたい」というキーワードはヒットする一因ではないかな、と。
というのも、先程「内向的」という言葉を使いましたが、
その様な中でも「誰かと繋がりたい」という所属や愛情の欲求はあるわけで
これがフォークであったならば、その歌の内容は、凄く外の世界に向いたものだと思うのです。
しかしながら、よく耳にする彼らの歌は、
「外の世界」というよりも「君」という一番身近な「外の世界」(それは時として同化され得るので必ずしもそう言い切ることはできませんが)に向いているっぽいな、と感じます。
「シラケ」や「バブル」といった幾つかの時代を通り抜け、
いろんなものが消えて、また生まれて。
見た感じ結構息切れ気味の日本の中で求めるものは「君との繋がり」と考えると、
なんかわかる気もするけど、「うーむ」と唸ってしまいます。
やはり「エネルギーが足りない」感があります。
もしかしたら、「足りない」のではなくて「諦めている」のかもしれませんが…。
追記>>
このようなことを書いてまいりましたが、
個人的には、それこそ70年代のような
「どうしようもないエネルギーをそこにぶつけている」ような音楽が、私は大好きです。