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こんにちは。
実はこれ、前回、第六回と同じ、2016年1月10日に投稿しようとして書いています。
これから3~4回は、「信じるという行為は物理的な意味を持つか」を探究するために、
順に理屈を追っていく話です。
時間的にもひとまとめにやらないと、これがなんで「キリスト教の正しい学び方」になるのか、
わからなくなってしまう恐れがあるんですね。
少なくとも、前回と今回の話は、一気にやらねばなりません。
そこで、今日、日曜日、クリスチャンの方には忙しい聖日ですけど、またまたアップロードいたします。
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前回は、「物質はエネルギー波動体の一形態」と申しました。
最先端の物理学である量子力学の思想ではそうなるわけです。
今回は、その「物質(エネルギー波動体)が、人間の精神活動によって影響を受ける」ことを示します。
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<双子の光>
量子力学では、われわれの五感による認識感覚を超えた、ことがらが次々に出てきます。
その一つに「双子の光子」というのがあります。
光子(こうし)というのは有り難い素粒子です。
それが我々の眼球内に飛び込んできて、網膜によってキャッチされることによって、
我々はものを視覚することが出来ているのです。
そして量子力学の世界は不思議な世界でして、この光子から双子のように全く同じ二つの光子を造ることが出来るそうです。
これが双子の光子なのですが、これを用いた実験についての筆者の耳学問をお伝えします。
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(余談です。
鹿嶋には実は、長年にわたって物理学知識を耳学問させてくれている親友がいます。
親友といっても国際的に活躍する物理学者で、故・朝永振一郎先生のお弟子さんのI名誉教授です。
でも聞き違い、理解間違いというのはあるものでして、私が学問的に間違ったことをいう可能性はゼロではありません。
その時にはもちろん、責任はすべて私にあります。
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私はこれをドスを効かすつもりでいっているのでなく、我が友への感謝を記念しておくために書いています。
なおI先生はビックリするような学界武勇伝をもお持ちです。
いつか、そのこともお話しできるかもしれません。
「世」というものがどういうものかを教えてくれる話です)
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<驚愕の実験結果>
実験の話に戻ります。
研究者は、まず双子の光子を造って、各々を遠く離れた全く別の地点に閉じ込めた。
そして、一方はそのままに、もう一方は、人にそれを認識させました。
すると、認識された方の光子は、されない光子とは異なったものになっていた、という。
つまり、認識されることによって、光子という素粒子は影響を受け変化したのです。
そのことが、実験で確かめられた、というのは、筆者には驚愕的な情報でした。
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<認識は精神エネルギー活動>
筆者は従来より、人間の精神活動は、エネルギー活動であることを、体験的に確認していました。
たとえば、気功の達人が気を送ってくると、文字通りドシンと感じる。
そういう体験を一度ならずしてきました。
人間の認識活動もまた精神エネルギー活動です。
精神エネルギーも波動体であり量子であり、その活動は量子活動です。
認識活動は量子活動なのです。
+++
一方、光子もまた物質(素粒子)であり、その根源はエネルギー波動体であり、量子です。
認識という量子(精神エネルギー)活動が、光子という量子(エネルギー)に影響を与え、変化させた。
この実験は、それを確認させるものだと理解しました。
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<認識のされ方にも影響されるはず>
実験が筆者に教えてくれたのは、光子が認識されたら変化した、という事象だけはありません。
「量子は精神エネルギーを受けると変化する」、という、いま少し一般的な法則も示唆してくれた。
そして、そこから次のような推論も成り立つように、筆者にはみえます。
すなわち、量子の変化のありかたは、認識の「され方」によっても異なってくるだろう~と。
認識のされ方の違いは、精神エネルギーの送られ方の違いでもあるからです。
その違いは量子への影響の仕方も違えるだろうと考えられるのです。
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これも余談です。
筆者には精神エネルギーの送られ方が、それ特有の影響を与えるらしいと感じた体験があります。
現役時代のことでした。
午前10時頃だったと思いますが、筆者は勤務地の正門を入って仕事場に向かって歩いていました。
すると、突然、強烈な「気」のようなものが、筆者の胸にドシンとぶつかってきました。
その「気」は、暗く重々しく、不快な感じを与えるものでした。
それはものすごいものでしたので、筆者はそれが送られてきたであろう前方を見ました。
すると、ある人物が、さっと歩道の横の建物の方に身を寄せたのが見えました。
筆者が通り過ぎるのをやりすごそうとしているようでした。
その人は、日頃から筆者を快く思っていなくて、接する人々に筆者の悪いイメージを仕事のように言いふらしている人でした。
遠くから歩いてくる筆者を見たその人から、反射的に憎しみを含んだ「気」が発せられたと、筆者は今も解しています。
送られる精神エネルギーのあり方が、それ特有のあり方でもって対象に影響を与えることを認識させてくれた経験です。
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<言葉が量子ならば>
話を戻します。
これまでの考察を踏まえて、イエスの言葉もまた量子という実体だといえるかに、考察を進めていこうと思います。
もし量子であるならば、イエスの言葉もまた「信じられる」ことによって、変化するはずです。
「信じる」も、紛れもなき精神エネルギー活動だからです。
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次回には、それを考えましょう。
今回は短いのですが、知識の大事なひとかたまりですので、これで区切りといたしましょう。
(「キリスト教の正しい学び方」 第7回 完)
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