天理教の教義は、聖書と同じ創造神かあるいはその称号を使うことを許された天使が
中山みきに啓示されたものではないか。
~こういうと、多くのクリスチャンから「異端!」という声が飛んでくるでしょう。
牧師さんは「鹿島春平太の書くものなど読むな!」と信徒に指令なさるでしょう。
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だが、話は飛びますが、それは、キリスト教の真の姿を知らないからです。
牧師さんたちは、「教理主義」の方法だけででもって、キリスト教を学んでおられるからです。
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話は飛びます。
教理主義の反対語は「聖句主義」です。
英語ではバイブリシズム(Biblicism)といいます。
この方法に関する知識が、人々に伝わっておりません。
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この方法を知るのは容易ではありません。
説明するには、歴史からとらえ直す必要があります。
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さらに話は飛びます。
イエスによる、いわゆる「最後の晩餐」の時点にさかのぼります。
「ヨハネの福音書」を見ましょう~。
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「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、
夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれた。
それからたらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふきはじめられた」
(ヨハネの福音書、13章3-5節)
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~ドラマチックな場面ですが、ここでのイエスの真意は、キリスト者を自称する人々にも、正しく理解されていません。
イエスはここで、弟子の足を洗っています。
そして、「師匠(先生)である私がこうしたように、諸君(弟子たち)も
互いに足を洗いあいなさい」といっています。(ヨハネの福音書、13章12節~14節)
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この言葉の奥義は「君臨するな」です。
どこで? 教会で、です。
教会などこの時点ではまだこの世にありません。
だが、イエスはすでに信徒の集まり、すなわち、教会(初代教会)を「自分の手で」作ることを決めているのです。
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実際、彼は死んで復活した後に、200人に上る弟子たちに「エルサレムに留まりなさい」と命じています。
そこで「聖霊のバプテスマ(生霊が人の霊の内に入ること)」を与え、
弟子たちに奇跡を起こさせ、エルサレムの人々を信徒にします。
イエスがこれをしなかったら、一日で3000人もの人々が弟子たちの仲間に加わること(教会が出来ること)など、起きえません。
初代教会はイエスの主導でできているのです。
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だがその教会ができれば、弟子たちは先達として、入会者に敬われるでしょう。
放っておけば、弟子たちは入会者に対して指導者・上位者として君臨するようになるでしょう。
これは人間社会での自然な成り行きです。
だがイエスは、わざわざ弟子の足を洗ってみせて、「君臨するな」と強く戒めているのです。
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では、弟子たちは新会員に対してどうしたか。
後述する理由によって、その記録は覆い隠されていて、歴史記録として見ることは困難です。
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だが、その活動を、度重なる迫害に耐えて、こんにちまで受け継いできている人々が現存します。
その最も多くの群れは、米国南部にサザンバプテストと呼ばれて、存続しています。
(信徒数は、推計4000万人です)
筆者鹿嶋は、その現地に出向いて群れへの参加を許されて一年間居住しました。
実際にその活動を体験したので、それを言葉で知らせることが出来ます。
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この方式は、書物で読んだだけの人が説明しても、聞くものは理解できません。
実地で体験するのがベストですが、少なくとも体験したものによる説明が最低限必要です。
これから筆者はその体験談をお伝えしようと思います。
話は長くなります。
(続きます)
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