中華民国政府を新設した孫文の次の仕事は、北方に依然として存在する清王朝を解体して
「一つの中国」を確立することでした。
孫文はスーパー外交を展開します。
<北部武装軍団の大ボス>
ここで乱世の豪傑・袁世凱(えんせいがい)に登場してもらわねばなりません。
彼は清王朝軍隊の統率者でした。
といっても、清朝が国民軍を持っていたのではありません。
北の地域には数多くの武装軍団(軍閥)が出来ていました。各々にボスがいます。
彼らは自分の地域を統治し、税や貢納物をとって部下を養っていました。
袁世凱はこのボスたちすべてを統率する大ボスでした。
清王朝は、こうした彼に、軍務をゆだねていたわけです。
王朝政府の統治力が弱まれば、軍の統率者への依存度は高まっていきます。
彼は皇帝の下で機能する二代目内閣総理大臣に抜擢され、
軍事・行政を含む全権を委任されました。
<宣統帝を退位させる>
その袁世凱に、孫文は水面下で交渉しました。
提案内容は次のごとくです。
① 清朝皇帝・宣統帝を退位させてほしい。
② 帝と家族の身の安全は保障する。
(当時上海は列強の疎開地でそこで暮らせば中国人民に襲われることはなかった)
③ 帝には豪華な生活が送れる生活資金を供給する。
④ 袁世凱には新国家(中華民国)臨時大統領の地位を譲る。
袁世凱はこれを飲みました。
かくして宣統帝は単なる個人名の愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)となり、
1912年清王朝は消滅しました。
武昌蜂起から清朝消滅までの動きは「第一革命」と呼ばれます。
袁世凱は新国家の、孫文に次ぐ二代目臨時大統領となりました。
<袁世凱、専制政治に突き進む>
孫文の仕掛けた外交は効を奏し、回天がなりました。
だが、それに付帯する問題が起きました。
袁世凱は北方の無頼漢を束ねるボスたちを統率する豪傑です。
英雄色を好むといいますが、一妻九妾との間に17男14女をもうけるという豪快な絶倫男でもありました。
(誰ですか? いいなぁ・・とつぶやく人は!)
こういう人物には共和制下での臨時大統領という立場で、
いちいち議会の承認を取って政治を行うのはまだるっこくてなりません。
だが彼には陰謀能力もありました。
北京で「やらせ」の軍事反乱を勃発させ、これを納めるという口実で、
南京に行かずに北京において自ら臨時大統領就任宣言をおこなった。
上記の二代目臨時大統領はそういう実態でした。
<孫文、日本に亡命>
袁世凱は以後も独裁体制の確立に努めます。
議院内閣制を取り入れようとする政敵(宋教仁)を暗殺したりして、強引に事を進めます。
孫文は仲間と共に反対運動を起こしますが、敗北し再び日本に亡命しました。
この一連の動きは「第二革命」と呼ばれます。
孫文は東京で「中華革命党」を結成します(1914)。
1913年10月、袁世凱は強引に議会を従わせ正式大統領に就任しました。
以後、それにあきたらず大統領権限を強化し、軍事権限を掌握する大元帥制度を作り、
みずからそれを兼任してしまいました(1914)。
<袁世凱、自ら皇帝に>
袁世凱の権力集中行動はさらにエスカレートします。
皇帝制度を復活させて専制政治を再現しようとする。
彼は自ら皇帝即位宣言をし(1915年12月)、あわせて1916年より「中華帝国」樹立することを
宣言してしまいました。
ところがこれには全国規模での批判がわき上がりました。
彼は3ヶ月で「帝国取り消し宣言」をせざるをえなくなり、3月に病没してしまいました。
ここまでは「第三革命」といわれます。
袁世凱が死去すると、中国は政権獲得抗争の時代に入っていきます。
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