鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

コメント4:「ルカ伝の斉藤解読」

2005年12月04日 | 「考える宗教」へ
~~斉藤さんからメールでのコメントをいただきました。
許可を得て、ここに転載させていただきます。


                                 


春平太先生、みなさん、こんにちは、齊藤です。


ブログですと、その場で軽いコメントをつけるには便利ですが、
少し長くなると書きにくいので、ここはメールにします。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Vol.13より

文書の間で、細部にわたったところの描写に多少の
不一致があるのは、それは自然なことなのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

             

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Vol.14より
聖句の金網も、字面を絶対の真理としたら、焼け火箸の
ようになります。
  ・・・・・・・・
ではどうしたらいいか。内容のつながりを読みます。
そのつながりとは、別の言葉で言うと「本筋」です。
聖句には、細部において一致しないところがありますが、
ありがたいことに、本筋においては、信じがたいほどに
首尾一貫しているのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                



たとえば、ルカ福音書14章25節から35節までなどは、
これを考えるいい例ではないかと思います。
最近、他で考える機会がありましたので、本MLでも紹介させて
いただきます。

まず、口語訳から引用します。

25:大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて
  言われた。
26:だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも
  捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となる
  ことはできない。
27:自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、
  わたしの弟子となることはできない。

28:あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、
  それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを
  見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。
29:そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、
  見ているみんなの人が、
30:『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言って
  あざ笑うようになろう。
31:また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く
  場合には、まず座して、 こちらの一万人をもって、二万人を
  率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。
32:もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、
  使者を送って、和を求めるであろう。

33:それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく
  捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。

34:塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって
  塩味が取りもどされようか。
35:土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。
  聞く耳のあるものは聞くがよい。


                


さて、26、27節は、まさに「焼け火箸」です。
ここだけを取り出してみますと、
世間と一切、縁を切って、決死の覚悟でついてこい!
とでも言うような調子でしょうか。


                

それに対して、28~32節は、建築費用の積算とか
軍事シミュレーションとかの話になり、要は、冷静に考えて
目標(敵)を知り己を知った上で、合理的に事を進めよと
言っているわけでして、まるで正反対の説教です。

そして、33節では、また「焼け火箸」的表現に戻ります。
「それと同じように」と言っても、どこがどう同じなのか。

さらに続く34、35節も、内容的にどうつながるのか、
首をかしげたくなります。


+++


こんな風に、字面から追っていみますと、それぞれの言葉は
確かに、それだけなら理解できるのです。
しかし、全然つながらないという印象を受けます。


それでは、本筋はどうなるのでしょうか。
わたしなりにトライしてみます。

                


まず、イエスは、創造主の御子ですから、イエスに従うということは
創り主のみこころに沿って生きることになります。

そのためには天の父なる存在がどんな方であるのか、どんな属性を備えて
いらっしゃるかを、理性にもとづき、よく知っておく必要があります。


+++

そもそも、創り主の前では、すべてが創られたもの、被造物でしかない。
自分自身がそうですし、周囲の人々、自分の持ち物一切そうなってしまう。
そして、被造物に心が奪われてしまう、つまり、イエスよりも、
それらに心がとらわれてしまっては、イエスに従うことはままならなく
なるでしょう。

マタイ17章37節に言われている通りです。

  わたしよりも父または母を愛する者はわたしにふさわしくない。
  わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
  
そういう意味から、 ”財産をことごとく捨て切るものでなくては”、
イエスの弟子となれないということになります。 
熱意や覚悟だけではなくて、冷静に考えた結果、そういうことになる。

たとえば、26、27節を受けて、熱意や覚悟だけでついてくる人なら、
「土台をすえただけで完成することができず、」 という羽目に
なりそうです。

また、32節については、相手が創り主であると知ったら、はなから勝負に
なりませんので、イエスにとりなしていただき、和解を求めることを
喩えているように思えます。

                    


34節の「塩もききめがなくなったら、」云々とあるところはどうでしょうか。
”ききめのなくなった塩”というのは、創り主に全く心が向かなくなった
状態を指すのではないかと今のところ考えています。
そうなると手の施しようがない状態とでも言いましょうか。

そうならないため、イエスは、マルコ9章50節で、
  
  あなた自身の内に塩を持ちなさい。

と警告されています。

                  

わたしの考察は以上ですが、みなさんから、もう少し深い読み方、
本筋に近いヒントでもいただければ幸いです。








                         


~~~鹿嶋も見解を記させていただきますね。

 ここは聖書の鉄則「天(創主の統べ治める世界)と世(悪魔の支配する世界)とは絶対的対立関係にある」を下敷きにすると、すべて一つのことを言っているように解せそうではないでしょうか。

 イエスにつくというのは天の論理で生きると言うことですよね。そこでイエスについていけば、いずれ、世と絶対的に対立するようになるわけです。
ここでは親も兄弟も「世の側で世的に生きている」ことが前提になっています。だから、いずれ親兄弟とも敵対関係にならざるを得ないわけです。

 (徹底してイエスについていきますと、なんと、親兄弟もその人に対して、心の底でかすかながらも憎しみを抱くようになる、人間や世界はそうできているというのが聖書の教えるところです。これはですね、日本では聖霊を受けると体験する機会を持ちやすいのではないでしょうかね。牧師さんでさえ(受けられていない場合)対立してくることがある)


 「俺についてくるなら、そういう風に、行き着く先を見通して、ついてきてくれ」とイエスはここでは本質を語っているんですね。


~~家を建てるとき、土台だけでなく、上物の費用も計算し尽くしてから建設にはいる、というものそうですね。

~~戦で相手と自分の力の差を冷静に読み、和解するのも、行き着く先を読み尽くしている例です。


~~で、最後の、塩味というのは、天の側についたときのその人の味わい、と言ったらいいでしょうか。イエスに付き従うというのは結局は、天の側に付くことです。そのときは塩味がある。しかし、そうできないで、「やっぱり世がいいわい」と世にもどっていく場合は、創主からしたら塩味(天の風味)がなくなる、ということですね。


~~ですから、ここは、天と世との絶対的な対立を背景に、イエスにつくというのは、天の側につくことだ、ということを、様々な面から言っている、ということになります。

~~これが鹿嶋の解読ですが、とにかく、こういう風に、互いに解読を提供し合って、検討し合うようなスモールグループが毎週教会でもてたら、ホントにいいですね。これなら知的なビジネスマンもあきれて帰ることなくなるでしょう。


                       

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コメント3:「聖句の探求とは (SAITOH)」

2005年12月03日 | 「考える宗教」へ

~~「鹿嶋春平太チャーチ」にようこそ。

本日は斉藤さんからいただいていた「聖句の探求」に関するコメントを、ここに転載させていただきます。

なかなか考えさせられるコメントですね。


                              


春平太先生

聖句を探求する姿勢、方法を明確にしていただきありがとうございます。

前提として、聖書という書物全体に、創造主の発信したメッセージが織り込まれているという「信頼」がなければならないということがよくわかりました。

「信仰」というより、むしろ、日本語だと「信頼」の方が近いという指摘も納得できます。


+++


創造主への「信頼」はもちろんなのですが、わたしは、もう一歩進んで、すべてを大いなる仮説と考える姿勢もあるのかなと考えています。 

聖書には、創り主の発信したメッセージが詰まっているという仮説に立って、それの検証を進める態度です。

つまり、聖句の探求は、仮説を立証するための検証作業ということになります。
不完全な形で随所に埋め込まれている聖句を、聖書のあちこちをひっくり返しながら拾って、つき合わせて、創り主の伝えようとしたメッセージ、真理の全体をつかもうと試みる作業ですね。


                      


なにやら、思考実験とも、論理思考トレーニングとも、壮大な推理小説を読むようなイメージともいえるでしょうか。

~~とても健全で、かつ知性活性化に有効な試みになると感じます(鹿嶋)。
  
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Vol.18  「聖句探求と小グループ討議の関係」

2005年12月02日 | 「考える宗教」へ

聖書ほど多様な解釈が生まれうる本は、他にないんではないかと思います。

 たとえば旧訳聖書の創世記(3章21節)に、「エデンの楽園を出て行くアダムとイブに、創造主は革の衣を作って着せた」という記述があります。

 これがどういう意味をもっているかは、いろいろ考えられます。


                              

第一は簡単で「これは創主の人間への愛を示している」というもの。
 この解釈は日本で一番多く、99%がこれではないでしょうか。

+++

第二は「以後、二人には獣性が表に出てくることを創造主は示した」というものです。

 罪を犯してその霊が力を失ったアダムとイブには、肉体の欲求・衝動が霊の力を上回るようになりました。従来は、霊に活力があったので、肉体の欲求は霊の要求に従属していたわけですが「今後はそうではなく、動物と同じように、肉体の欲求が前面に出るよ」と創主が示した、というものです。

+++

第三は「将来、人間のために将来(イエスによって)血が流されることを、予表した」
というものです。

 つまり~~動物の皮を着せるには、動物を殺さねばなりませんよね。で、動物を殺して皮をとれば、血が流れます。それが「将来、イエスが現れて、人間の罪の効力を消すために、血を流すことを早くも予表している」~~といいうわけです。ベニーヒンはこういう解読をしています。

+++

この3つは、各々もっともだと筋が通ります。しかも互いに大変離れた距離にある。すりあわせ照らし合わせれば、ある見解が他の見解を間違いだと論理的に悟らせてくれるようなものでもなさそうです。

 だから、一人で聖書を読んでいると、その一つにとどまりやすいです。一生その一つの解釈に留まることも多いでしょう。

 その場合、解釈者は独りよがりになりやすいです。独りよがりは、独善に通じやすく、さらには傲慢につながりやすいです。

+++

 でもこれを救う方法もあります。それは複数で集まって、見解を提供しあえる場を作ることです。こういう場で互いの意見を持ち合えば、複数の見解を同時にみんなで知りあうことが出来る。

 その際、ただ他者の見解を知るだけでなく、互いに議論を交わせたさらにいいですね。そうすると、個々の解釈を深く認識することが可能になります。

 それを可能にするのは、数人程度のグループでしょう。経験的には6人くらいが最適なようです。そうすると、聞きっぱなしの一方通行ではなく、意見を交わしうるようになるのですね。

 これを米国の南部ではスモールグループと呼んで、実行しています。

+++

 ただし、ただ少人数で集まればそれでいいというものでもないようです。複数の解釈を平等に知れるようにするためには、みんなが自由に発言できるようにしないと難しいです。そしてそのためには、討議で正しい解釈を一つに定めることを目標にしないことが肝要です。

 一つに定めようとすると、実際の話、それでもって他者を裁いてしまうことになりやすいのです。それが予想されると、メンバーは自分の意見を出せなくなります。
また、裁くまでには行かないにしても、見解を一つにしぼることを目的にしても、徐々にある一つの意見を退けていくことになる。この過程をとるとやはり、各々の解釈を自由に披露するのに障害がでるのですね。


                     

 そこで、ルールを作ります。
会が終わった時点においても、正しい一つの解釈がえられることを求めない。
会が終わりに近づいても、結論めいたことは言わない。
複数の意見が併存した状態のままにして、会を閉じる。
          ~~こういうルールです。

 ~~米国南部では、もう慣習的になっていますのでこれは暗黙のルールでしかありません。ですけれども、初めてする地域では明示した方がいいような感じがします。

(続きます)

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Vol.17 「青年よ大志を抱け!」

2005年12月01日 | 「考える宗教」へ


 日本の福音活動の多くは、門前ならしであることを示してきました。
 だがどの世界にも例外はいます。


                                 


 「青年よ大志を抱け」で有名な、クラーク博士の門下生はそれでしょう。
 内村鑑三、新渡戸稲造、矢内原忠雄らはその系統で、彼らはスモールグループでの聖書解読を活動の中核に据えました。

 たまたまクラークのもとにこういう才能が集まった?
そんなことないでしょう。

 聖書の解読議論をグループで続けると、信頼感(信仰)のみならず、知性が急速に活性化するのです。その結果こういう才能として花開いているのです。



                     

 彼らをこのスモールグループ手法に導いたクラークとはどういう人でしょうね。その米国での福音履歴に鹿嶋はとても興味を覚えました。で、情報収集にちょっと努めたのですが、いまのところわかっておりません。

 アメリカの有名人と日本の有名人とはちがうんですね。(邦訳聖書を作ったヘボンもアメリカでは平凡な一宣教師みたいですしね)

 聖句探求主義の土壌から出た人に違いない、との確信は持っていますけれど・・。
 ご存じの人おられましたら、教えてください。


(続きます)
                     
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