ポレポレ東中野で、『十二人の写真家』を、最終日に何とか観ることができた。
1955年、写真雑誌の肝いりで、勅使河原宏が撮った1時間の映画だ。時期でいうと、1953年に初めての監督作品『北斎』を撮っており、その後、亀井文夫について『流血の記録 砂川』(1956年)(→過去の記事)なんかの撮影を担当したり助監督をつとめたりしている。しかし、この映画については、手元にある『勅使河原宏カタログ』(草月出版、1983年)にも『前衛調書』(勅使河原宏と大河内昭爾・四方田犬彦との対談、学芸書林、1989年)にも書いていない。
古いだけあって画像が不鮮明で、写真家たちのカメラがいまいちわからないのが悔しいが、それでも彼らの身のこなしを見ているだけでとても面白かった。
木村伊兵衛の使っているのは、出たばかりのライカM3だろうか。スナップの速度が冗談のように速い。本当に速い。ライカを小脇に抱え、歩きながらほとんど止まることなくさっと撮る。これには心底仰天だ。
三木淳は、ニコンがレバー式になったので速く撮れて云々、と言っているので、たぶんライカM3の影響を受けたニコンS2だろう。草月のいけばなの様子、とくに勅使河原宏の妹の勅使河原霞を撮っている。ちょうど、勅使河原宏は、草月の機関紙に関わったり、その後すぐに副会長になったりと、映画にも草月にも大変なころだったはずだ。
大竹省二は海辺でローライを使っている。モデルのポーズをあれこれ注文し、奇妙なフォルムをつくっていくスタイルがわかる。えらく二枚目だ。
濱谷浩は、敗戦の日に、晴天の空に向かってシャッターを切り続けた写真家である(飯沢耕太郎『戦後写真史ノート』、中公新書、1993年)。この1955年頃は、リアリズムという命題をどう受け止めるか、が多くの写真家にとって重要なことだったようだ。濱谷浩は、この時点では、新潟の海辺の村を、「行くところがなくへばりついている人びと」が暮らす場所として撮り続けている。バルナックライカにヴィゾフレックスを付けているのが面白い。
真継不二夫はキヤノンのバルナック型の何かを使っているようだ。林忠彦はいろいろ使っていた。
十二人のなかで最後に登場するのが土門拳。ちょうど『江東のこどもたち』を撮っていたころだ。土門拳は、この前年にリアリズム写真にひとつの区切りを宣言している・・・それが何なのかよくわからないのだが。また、「絶対非演出を前提にしたスナップ撮影」に、社会的リアリズム(本人は社会主義リアリズムと言いたかったらしい)を見出している(飯沢耕太郎『戦後写真史ノート』、中公新書、1993年)。
実際に映像に映し出されるのは、子どもたちに目の前で遊んでもらい、それを記録する土門拳の姿だった。そして撮影後には、子どもたちにお小遣いさえあげている。ヤラセだとは言わないし、これによる写真が時代の姿を記録した極めて優れた作品となっているのは確かなのだが、風のように吹き抜ける木村伊兵衛が捉えた偶然性は、そこにはなかった。
1955年、写真雑誌の肝いりで、勅使河原宏が撮った1時間の映画だ。時期でいうと、1953年に初めての監督作品『北斎』を撮っており、その後、亀井文夫について『流血の記録 砂川』(1956年)(→過去の記事)なんかの撮影を担当したり助監督をつとめたりしている。しかし、この映画については、手元にある『勅使河原宏カタログ』(草月出版、1983年)にも『前衛調書』(勅使河原宏と大河内昭爾・四方田犬彦との対談、学芸書林、1989年)にも書いていない。
古いだけあって画像が不鮮明で、写真家たちのカメラがいまいちわからないのが悔しいが、それでも彼らの身のこなしを見ているだけでとても面白かった。
木村伊兵衛の使っているのは、出たばかりのライカM3だろうか。スナップの速度が冗談のように速い。本当に速い。ライカを小脇に抱え、歩きながらほとんど止まることなくさっと撮る。これには心底仰天だ。
三木淳は、ニコンがレバー式になったので速く撮れて云々、と言っているので、たぶんライカM3の影響を受けたニコンS2だろう。草月のいけばなの様子、とくに勅使河原宏の妹の勅使河原霞を撮っている。ちょうど、勅使河原宏は、草月の機関紙に関わったり、その後すぐに副会長になったりと、映画にも草月にも大変なころだったはずだ。
大竹省二は海辺でローライを使っている。モデルのポーズをあれこれ注文し、奇妙なフォルムをつくっていくスタイルがわかる。えらく二枚目だ。
濱谷浩は、敗戦の日に、晴天の空に向かってシャッターを切り続けた写真家である(飯沢耕太郎『戦後写真史ノート』、中公新書、1993年)。この1955年頃は、リアリズムという命題をどう受け止めるか、が多くの写真家にとって重要なことだったようだ。濱谷浩は、この時点では、新潟の海辺の村を、「行くところがなくへばりついている人びと」が暮らす場所として撮り続けている。バルナックライカにヴィゾフレックスを付けているのが面白い。
真継不二夫はキヤノンのバルナック型の何かを使っているようだ。林忠彦はいろいろ使っていた。
十二人のなかで最後に登場するのが土門拳。ちょうど『江東のこどもたち』を撮っていたころだ。土門拳は、この前年にリアリズム写真にひとつの区切りを宣言している・・・それが何なのかよくわからないのだが。また、「絶対非演出を前提にしたスナップ撮影」に、社会的リアリズム(本人は社会主義リアリズムと言いたかったらしい)を見出している(飯沢耕太郎『戦後写真史ノート』、中公新書、1993年)。
実際に映像に映し出されるのは、子どもたちに目の前で遊んでもらい、それを記録する土門拳の姿だった。そして撮影後には、子どもたちにお小遣いさえあげている。ヤラセだとは言わないし、これによる写真が時代の姿を記録した極めて優れた作品となっているのは確かなのだが、風のように吹き抜ける木村伊兵衛が捉えた偶然性は、そこにはなかった。