Sightsong

自縄自縛日記

犬を放して散歩させるんじゃない

2010-04-13 23:57:02 | 政治

千葉の浦安界隈、行徳界隈で、大きな犬に紐を付けずに散歩させている輩がたくさんいる。かなり怖い。小さい子どもを連れていたりすると、怖いでは済まない。犯罪的である。先日などは、不快な顔をしていたら、あろうことか睨みかえされてしまった。どうなっているのか。

調べてみると、ちょうど市川市議会で、並木まき市議が同じ趣旨の一般質問をしていた(>> リンク)。ただ、あくまでドッグラン整備がポイントのようだ。

さっそく並木市議に連絡したところ、返事をいただいた。

知らなかった。放し飼いは「犯罪的」なのではなく、「犯罪」なのだった。千葉県条例でも放し飼いは禁止されている。並木市議は、犬の飼い主が必ず立ち寄る場所でのマナー・モラルの啓発活動と、ドッグランの整備とを、提案しているということである。現在市川市内にドッグランが2箇所あり、時期未定ながらあと3箇所設置予定があるという。

しかし、望ましいのはわかるが、住宅地に十分な面積のドッグランを作るなど何年かかるのだろう。ドッグラン設置よりオロカな飼い主教育のほうが圧倒的に重要なのではないか。成果はドッグランという形ではなく、クレームと被害の数の減少のはずである。


市川塩浜のドッグラン


ジル・ドゥルーズ『フーコー』

2010-04-13 00:15:49 | 思想・文学

ジル・ドゥルーズが、ミシェル・フーコーの死後ほどなくして書いたフーコー賛の書、『フーコー』(河出文庫、原著1986年)。

扇動、変奏曲、斜め横断、反響。まるでツイッターのように、無数のつぶやきに満ち、それが、ざわめきと化している。晦渋ではあるが、このざわめきを可視化前段階のイマージュとして脳内に漂わせること、それを意識して読んだ。

ドゥルーズが提示するフーコー世界のイマージュは、たとえば、エーテルが充満したひとつの世界における力の生成、伝達、応答が、また別の世界でも別の姿であらわれる、そんなものだ。複数の世界はトポロジカルに類似するが、言語上類似するという意味からも、可視的に類似するという意味からも、微妙に隔たっている。フーコーが権力と言うとき、それは大きな中心から手を伸ばしたようなものではなく、国家政治でも、家族でも、トイレでもトポロジカルに発生し、伝達し、応答するものを暗示している。

従って、『監獄の誕生』において重層的に見せた監獄なるものは、病院でもあり、学校でもある。勿論、『監獄の誕生』は、直接的に、監獄が犯罪を再生産し(これは、監獄があるから犯罪が起きるのだ、という意味ではない)、法が囚人を再生産するといった近代の<バッファー>の有り様をあからさまに提示した優れた書として読まれるべきでもあるだろう。ドゥルーズのテキストが、フーコーの触手を描いてみせたということに過ぎない。「フーコーは『監獄の誕生』において一望監視装置(パノプティコン)という概念を・・・」などとキーワード的に引用している言説の貧しさは、このテキストの対極にある(たとえば、テレビで稼ぐ脳科学者とやらの乱発する本)。

ドゥルーズは、<見えるもの>と<言語たるもの>との間に存在を揺れ動かさせ、それらの揺動の力を<襞>として思考する。折りたたまれた<襞>こそが自己であり、そこに人間の可能性を見る。つぶやきとざわめきを潜り抜けたとき、妙な感動さえ覚えた。

●参照
ミシェル・フーコー『監獄の誕生』
ミシェル・フーコー『コレクション4 権力・監禁』
フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』