Sightsong

自縄自縛日記

『沖縄・43年目のクラス会』、『OKINAWA 1948-49』、『南北の塔 沖縄のアイヌ兵士』

2010-04-22 23:50:39 | 沖縄

沖縄戦・基地に関する新旧テレビドキュメンタリー。

■『沖縄・43年目のクラス会』(2010年)

長寿番組「NNNドキュメント'10」において放送された。1972年の施政権返還前に、ある高校ではその是非に関するクラス討論が行われた。森口豁がかつて同じ番組枠で制作した『沖縄の十八歳』(1966年)にも、その姿が記録されている(>> リンク)。今の高校生とは比較できないほど切実で自分の問題として考えた意見が、文字通り叫ばれている。なぜ沖縄に基地を集中させるのか、差別ではないか、と。

そこで訴えかけられた点は、悲しいことに、今でもさほど変わっていない。43年経って、当時の高校生たちは還暦の年となっている。振り返ってみて、いくばくかの期待は、施政権返還後まもなくして裏切られたと感じたという。

幼稚園の保母になっている女性は、宮森小学校に米軍機が墜落し11人の子どもたちが亡くなった事件(1959年)を、いまの子どもたちに伝えようとしている。また、高校の校長先生となり定年を迎えた男性は、「あの18歳の正義感が今試される。自由人としてどう行動するかだという別の声が聞こえる」と決意を示している。

不覚にも少し泣いてしまった。

■『OKINAWA 1948-49』(2008年)

NHKで放送された。戦後、弾薬処理のため沖縄に駐在したハートフォード・チューンは、当時の様子を8ミリフィルムに記録していた。最初は自分の家族だけをおさめていた氏だが、ビーチで遊ぶ子どもたちの後ろに、貧しい沖縄の子どもたちがいることに気が付いたのだという。氏の娘が、これらのリールを、記録映像を収集するNPOがあると聴いて送ってきたというわけである。

さとうきびを絞るサーター車、泡瀬干潟での塩づくり、石川市(現・うるま市)での祭り、米軍による戦災復興住宅である規格家(キカクヤー)などがうつし出されている。そうか、泡瀬は塩田になっていたのか。


泡瀬干潟での塩づくり

■『南北の塔 沖縄のアイヌ兵士』(1985年)

以前に、一坪反戦地主会のYさんにいただいた。

沖縄戦に召集されたアイヌの兵士がいた。糸満市真栄平は住民の3分の2もが亡くなった場所で、戦後、住民とアイヌ有志により、慰霊碑「南北の塔」が建てられている。その中心となった弟子(てし)豊治氏について、「息子のようにかわいがった」という住民の家族がこう語っている。旧日本兵と仲良くしていると、周囲からは住民を虐殺した者たちではないかと批判される。しかし、アイヌは沖縄同様にヤマトから差別されてきた存在なのだ、だから当時もシンパシーを抱いたに違いないのだ、と。

弟子さんの配属された部隊は、真栄平から運玉森(運玉義留で知られている >> リンク)を敵中突破しようとするが敗れ、南岸の大度浜(>> リンク)を経て再度北上したのだという。


大度浜

アイヌの口琴・ムックリの音が印象的である。沖縄在住の画家・宮良瑛子がアイヌ兵士(ムックリを弾いている)に捧げた絵も紹介される。


シャーリー・クラーク『Ornette: Made in America』 オーネット・コールマンの貴重な映像

2010-04-22 21:59:13 | アヴァンギャルド・ジャズ

シャーリー・クラークは米国のインディペンデント映画作家であり、フレディ・レッドやジャッキー・マクリーンを登場させた舞台劇の映画化『The Connection』(1961年)が知られている。ジョナス・メカスの日記なんかにはよく名前が出てくるが、広く知られた存在ではない。調べてみると、1997年に亡くなるまでアルツハイマー病に苦しんでいたようで、そのためか、『Ornette: Made in America』(1985年)が最後に手掛けた映画である。文字通り、オーネット・コールマンのための映画だ。

支離滅裂とまでは言えないが、優れた映画でないことははっきりしている(そのため、ヴィデオを観るたびに新鮮だ)。オーネットの少年時代の回想に役者を使っている以外は、ドキュメンタリーである。オーネットの貴重な映像が出てきて、これだけで映画の出来などどうでもよくなる。

映画は、オーネットの故郷テキサス州フォートワースに建設されたパフォーミング・アーツ・センター「キャラヴァン・オブ・ドリームス」の完成記念コンサート(1983年)のシーンから始まる。オーネットは、息子デナードやバーン・ニックス、ジャマラディーン・タクマらからなるプライム・タイムを率いて、地元のフォートワース交響楽団と、「アメリカの空」を演奏する。

この演奏も、1998年・渋谷オーチャードホールでの演奏も、オーケストラとの融合も化学変化もあったものではなく、ほとんど「全く違う世界のものを同じ場所に配置する」といった意味でのシュルレアリスムであった(渋谷でも居眠りしている人が結構いた)。しかし、オーネットのサックスの音さえあればいいのだ。恐らくそういうものである。レコード作品としての『アメリカの空』(1972年)では、オーネット以外のバンドメンバーが参加できなかったため、ロンドン交響楽団とオーネットとの共演という形になっている。こちらのほうがハチャメチャではなく、緊張感があって私は好きだ。

この演奏だけでなく、映画にはさまざまな記録が盛り込まれている。1968年ニューヨーク、オーネットは12歳の息子デナードに、音楽における自由や関係性などを説き、デナードはそうしようとしているんだけど・・・と真剣に応える。1984年、フォートワースの生家に座り、母親から逃げ出した昔話を息子に語る。1980年、ミラノのテレビ放送で、デナードともう一人のドラマー(カルヴィン・ウェストンか?)をバックにアルトを吹く。1972年、ニューヨークのアーティスツ・ハウス(オーネットが持っていたロフト)で、ドン・チェリー、エド・ブラックウェル、デューイ・レッドマン、チャーリー・ヘイデンと共演する(この映像がもっとも嬉しい)。1972年、ナイジェリアで、現地ミュージシャンらと共演する。


フォートワースの生家で、オーネットとデナード


アーティスツ・ハウスで、黄金メンバー

インタビューも面白い。ジョージ・ラッセルがオーネットの天才性を説く。ウィリアム・バロウズ(映画『チャパクァ』で近づいた!)は、飲んでいるビールの泡を鼻先に付けている。妻ジェーン・コルテスは何やら詩を読む。

批評家マーティン・ウィリアムスは、オーネットがチャーリー・パーカーのようにブルースを突然吹いたのを聴いて驚愕したという。多くのパーカーのフォロワーやイミテイターとは違って、そんなふうに吹いたのはオーネットだけだったというのだ。何だこれをやれば人気が出て成功するのに、と振ったところ、オーネットは「好きだからやっているんだ」などと答えたという。

映画の後半は妙にサイケデリックとなり、観ていてちょっと辛い。スペースシャトル内の映像に、オーネットが自転車を漕ぐパーツを重ね合わせたり、バックミンスター・フラーのジオデシック・ドーム内にあるサボテンを延々と撮ってみたり。さらには、オーネットが「世の中には2種類の人間がいる。男と女だ」と言い放ったかと思うと(デューク・エリントンのパクリか?)、女性の喘ぎ声が充満する始末。女性にはモテモテだったのかもね。

エンディング曲は、オオクボ・マリという女性が歌う。2006年の来日公演でも突然出てきた歌手である(私は東京芸術劇場と渋谷オーチャードホールに足を運んだが、両方で登場した)。おそらくその場では、その歌手が誰なのか知っている人はほとんどいなかった。後日、『ジャズライフ』だったかに、あれはオーネットの「彼女」らしいと書いてあった。

この映画、DVDでも出ていないようだし、何しろオーネットの英語はわかりにくいので、どこかで公開するかまともなDVDにして出してくれることを切望する。それより、また来日しないかな。ギャラはワンステージ最低8万ドルだとか?

●参照
オーネット・コールマンの最初期ライヴ
コンラッド・ルークス『チャパクァ』