沖縄戦・基地に関する新旧テレビドキュメンタリー。
■『沖縄・43年目のクラス会』(2010年)
長寿番組「NNNドキュメント'10」において放送された。1972年の施政権返還前に、ある高校ではその是非に関するクラス討論が行われた。森口豁がかつて同じ番組枠で制作した『沖縄の十八歳』(1966年)にも、その姿が記録されている(>> リンク)。今の高校生とは比較できないほど切実で自分の問題として考えた意見が、文字通り叫ばれている。なぜ沖縄に基地を集中させるのか、差別ではないか、と。
そこで訴えかけられた点は、悲しいことに、今でもさほど変わっていない。43年経って、当時の高校生たちは還暦の年となっている。振り返ってみて、いくばくかの期待は、施政権返還後まもなくして裏切られたと感じたという。
幼稚園の保母になっている女性は、宮森小学校に米軍機が墜落し11人の子どもたちが亡くなった事件(1959年)を、いまの子どもたちに伝えようとしている。また、高校の校長先生となり定年を迎えた男性は、「あの18歳の正義感が今試される。自由人としてどう行動するかだという別の声が聞こえる」と決意を示している。
不覚にも少し泣いてしまった。
■『OKINAWA 1948-49』(2008年)
NHKで放送された。戦後、弾薬処理のため沖縄に駐在したハートフォード・チューンは、当時の様子を8ミリフィルムに記録していた。最初は自分の家族だけをおさめていた氏だが、ビーチで遊ぶ子どもたちの後ろに、貧しい沖縄の子どもたちがいることに気が付いたのだという。氏の娘が、これらのリールを、記録映像を収集するNPOがあると聴いて送ってきたというわけである。
さとうきびを絞るサーター車、泡瀬干潟での塩づくり、石川市(現・うるま市)での祭り、米軍による戦災復興住宅である規格家(キカクヤー)などがうつし出されている。そうか、泡瀬は塩田になっていたのか。
泡瀬干潟での塩づくり
■『南北の塔 沖縄のアイヌ兵士』(1985年)
以前に、一坪反戦地主会のYさんにいただいた。
沖縄戦に召集されたアイヌの兵士がいた。糸満市真栄平は住民の3分の2もが亡くなった場所で、戦後、住民とアイヌ有志により、慰霊碑「南北の塔」が建てられている。その中心となった弟子(てし)豊治氏について、「息子のようにかわいがった」という住民の家族がこう語っている。旧日本兵と仲良くしていると、周囲からは住民を虐殺した者たちではないかと批判される。しかし、アイヌは沖縄同様にヤマトから差別されてきた存在なのだ、だから当時もシンパシーを抱いたに違いないのだ、と。
弟子さんの配属された部隊は、真栄平から運玉森(運玉義留で知られている >> リンク)を敵中突破しようとするが敗れ、南岸の大度浜(>> リンク)を経て再度北上したのだという。
大度浜
アイヌの口琴・ムックリの音が印象的である。沖縄在住の画家・宮良瑛子がアイヌ兵士(ムックリを弾いている)に捧げた絵も紹介される。