Sightsong

自縄自縛日記

『カーボン・ラッシュ』

2013-04-07 18:23:42 | 環境・自然

NHK「BS世界のドキュメンタリー」枠で放送された、『カーボン・ラッシュ~CO2排出権ビジネスの実態~』(カナダByron A .Martin Productions / Wide Open Exposure Productions制作、2012年)を観る。(>> リンク

番組は、冒頭に、スコットランドにおけるCO2多量排出企業を横目に見つつ、また、ロンドンにあるヨーロッパ気候取引所(ECX)(一度訪問したことがある)の看板をことさらに示しつつ、環境NGOの人間が、CO2排出源からの直接削減以外は信用ならないと言うところからはじまる。環境経済の手法を端から否定しているわけであり、それは、論理ではなく、知識に裏付けられない感覚に基づいていることがわかる。

おそらく、この手の人にとっては、産業活動やオカネが環境と関連付けられることが我慢ならないのだろう。環境対策のコストを内部化し、経済の流れに乗せるということなど、受け入れられないに違いない。

そして、実際にCO2を削減する事業の実例として挙げられるのは、ブラジルにおけるユーカリ植林、インドにおけるRDF製造、ホンジュラスにおけるアブラヤシによる還元剤製造である。確かに、ユーカリ、パームともに生態系に悪影響を与えかねない植林の樹種であることは以前から知られている。また、RDFも条件が整わない限り無駄な事業になりうることも知られている。しかし、これらが不適切な事業であるということであって、それ以上ではない。こういった事業への参加を、欧州の企業も日本企業も回避することが多いことを、知らないのだろうか?

こんなドキュメンタリーはダメダメ。


『The Next Megaquake 巨大地震』

2013-04-07 11:27:08 | 環境・自然

NHKで放送された『The Next Megaquake 巨大地震』を観る(2013/4/6)。2回に分かれており、1回目は「3.11巨大地震 明らかになる地殻変動」(>> リンク)、2回目は「"大変動期" 最悪のシナリオに備えろ」(>> リンク)。

2011年東日本大震災(「3.11」)が起きた前後の観測結果やその分析により、そのメカニズムが分かってきている。

・プレート境界において、プレート間が一時的に固着した場所であるアスペリティの挙動について。
・それらが連動して動いたことについて。
・海洋底の地震直前の変動について。
・プレート端のひずみに伴う熱の発生について。
・巨大津波の発生メカニズムについて。
・今後の巨大地震連動の可能性について(南海トラフ、東京湾、琉球弧付近など)。
・巨大地震が起きたら数年間に例外なく起きるはずの火山爆発について(富士山など)。

なるほど、研究成果が、地震波の分析、フィールドワーク、古文書の分析、GPSデータの利用、衛星による大気質計測データの利用など、さまざまな手法を通じて紹介されている。わたしも修士までこの分野に身を置いたので、知っている顔もあらわれる。

ここに見られるのは、脅威をあおり、まるで地道かつ誠実な研究が地震予知につながりうることを示そうとする意図である。確かに、これまでにない精緻・詳細なデータ観測網は、いずれ、大きな成果となって結実するのかもしれない。

しかし、阪神・淡路大震災や東日本大震災など予期せぬ大地震によって残された教訓は、地震予知などはるか先に見えるかどうかわからない程度のものだ、ということではなかったか?

重要なのは、「備えよ」と抽象的に叫び、漠然とした期待とともに研究予算を焼け太りさせることではなく、地震や津波や火山噴火といった大災害は「いつ、どこで起きるかわからない」ということを認識し、都市やインフラをそれに適応させることではないのか?

知的には興味深くはあっても、メッセージの示し方について大きな違和感を抱くドキュメンタリーである。次の『Megaquake III』では、活断層と直下型地震(>> リンク)、そして長時間地震動(>> リンク)に、焦点があてられる。注目して観たい。

●参照
ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』
島村英紀『「地震予知」はウソだらけ』


ジャン=リュック・ゴダール『パッション』

2013-04-07 02:00:29 | ヨーロッパ

ジャン=リュック・ゴダール『パッション』(1982年)を観る。もう学生の頃に三百人劇場だったかどこかで観て以来。

ポーランド人監督による、ゴヤ「プリンシペ・ピオの丘での虐殺」や「裸のマハ」、レンブラント「夜警」などヨーロッパの名画をモチーフとした映画撮影。ヨーロッパの光と影をとらえることはなかなかできない。また、参加者たちの動きを統制することは、端から放棄している。事態は混沌そのものと化す。

映画において繰り返されるように、仕事は愛であり、愛は仕事に違いないことが、理由を超えて迫ってくる。そして、何しろ、ラウール・クタールによるアベイラブルライトでの撮影も、敢えて周辺音をずらした音づくりも、間合いも、ひたすらに繊細である。

改めて観ても、わけがわからないが、心を掴まれるほどに魅了されてしまう。すべての瞬間に価値がある。

何より、ハンナ・シグラの微妙に官能的な表情といったら、・・・!!

●参照
ジャン=リュック・ゴダール『軽蔑』