Sightsong

自縄自縛日記

『Megaquake III 巨大地震』

2013-04-14 22:02:00 | 環境・自然

NHKで放送された『Megaquake III 巨大地震』を観る(2013/4/7, 14)。2回に分かれており、第1回が「次の直下地震はどこか~知られざる活断層の真実~」(>> リンク)、第2回が「揺れが止まらない~"長時間地震動"の衝撃~」(>> リンク)。


番組のポストカード

第1回の活断層については、多くの最近の研究成果が示されている。

東日本大震災(2011年)によってプレート境界のひずみは解消されたが、その際に、東日本が乗る北アメリカプレートは慣性でよけいに東に動き(最大6m)、引っ張られ、新たに多くの活断層が出来た。
・また、その慣性による引っ張りに伴い、マントルが下から地殻を突き上げ、震源地から400km程度の同心円状に大規模な隆起が起きた。
・したがって、今後何十年にもわたり、活断層のずれによる直下型地震が頻発するだろう。
・活断層は数多く存在し、地表から判明したものしかわかっていない。堆積層などが把握を邪魔するわけである。(地表にあるものを活断層、地下にあって地震を引き起こすものを震源断層と呼んで区別している)。
・活断層は綺麗な形ではなく、何本にも枝分かれしている。したがって、地上施設が1本の活断層の真上にあるかどうかを云々することは、あまり意味がある話ではない。
・大阪の上町断層は、物理探査(人工的な地震波を用いる)により、従来考えられていたよりも広範囲に広がっていることが判明した。
・東京の立川断層は、堆積層が厚すぎて(最大5km程度)、どこにあるのか未だはっきりしない。(貝塚爽平『東京の自然史』にも、東京湾の造盆地運動について解説されていた。地盤が下へ動き、その分、上に堆積層が積もっていくわけである。>> リンク

さらには、日本のみならず、中国四川省、台湾、ニュージーランド・クライストチャーチでの地震についても、内陸型だとして説明される。クライストチャーチは、地震が起きるまで、その近くに活断層があるとは知られていなかった。現地の研究者も、まだまだ知られていない活断層があるはずだと発言している。昨日の淡路地震も、阪神淡路大震災(1995年)を引き起こした野島断層そのものではないとされている。

要するに、直下型地震の原因となる活断層の特定は、すべて後追いなのである。これは、研究によって地道にすべてを調べていくことで対処できる類のものではない(いつどこで起きるかわからないため)。大地震が起きた時に被害を最小化するような都市造り、インフラ整備のほうが重要であることは、誰の目にも明らかだろう。

そうしてみれば、原子力発電所をどのように判断するかについても、また明らかである。少なくとも、「国家百年の計」や「国家強靭化計画」を標榜するならば。

第2回は、「3.11」で起きた長時間地震動について、そのメカニズムを説いている。 

確かに、東京丸の内のオフィスにいたわたしにとっても、体験したことがない長い揺れだった。最後は、微妙にゆさゆさと揺れ、乗り物酔いのような気持ちの悪さを味わった。 

実は、巨大な震源域の中で、時間差を置いて次々に大地震が発生したため、それらの地震波が少々の時間差をもって重なり、長くて大きい揺れとなったのだった。その結果、建物にとっても、一度ダメージを受け、その後さらに異なる向きの揺れが襲いかかってきたため、これまでの耐震設計では耐えきれない結果となった。これは建物だけでなく、地盤においても同様だった。

東京や大阪など、分厚い堆積層の上に開発された場所では、揺れはさらに大きなものになったのだという。これは恐怖だ。しかも、大都市には地下街もある。高速道路が横倒れになった阪神淡路大震災の後、東京でも、高速道路や公共の建物での耐震補強が進められていた。あれがなかったなら、と考えると、ぞっとする。 


東京駅地下、「3.11」の夜

●参
『The Next Megaquake 巨大地震』
ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』
島村英紀『「地震予知」はウソだらけ』
東日本大震災の当日


ポール・オースター+J・M・クッツェー『Here and Now: Letters (2008-2011)』

2013-04-14 11:22:38 | 北米

ポール・オースター+J・M・クッツェー『Here and Now: Letters (2008-2011)』(2013年)を、Kobo Touchで読む。米国の人気作家オースターと、南アフリカ出身のノーベル賞作家クッツェーの書簡集である。


表紙の万年筆が、なぜかサイドフィラー式

最初に告白してしまうと、読んでいてあまり愉しくはなかった。あくまで書簡であり、物語世界を構築しているでもなし、かといって礼儀にくるんでの文章ゆえ素朴なエッセイでもなし。つい気懸りなことを考えていて、目だけが字面を追っていくこともあったりして。このようなものは、よほどのファンでなければ読むべきではないね。

とは言え、面白い要素はそこかしこに現れる。オースターの小説世界は、それが人との関わりであろうと、心の内奥であろうと、煉瓦の表面であろうと、具体的に解釈して積み上げていき、結果として奇妙奇天烈な形になっているのだということが実感できる。たとえば、オースターは、どんな小説の登場人物であろうと、部屋のソファーなど自分が知っている場所にその人物を配置し、言動を想像・創造するのだという。これに対して、クッツェーの創作においては、より抽象的な時空間を想い描いている。

オースター得意の野球ネタ。MLBのガララーガ投手(当時、タイガース)は、インディアンス戦で、あと一人のところで、一塁塁審の明らかな誤診により、完全試合を逃している。オースターは、そのあとのガララーガの爽やかな「Of course. Such is life, and what else can you expect?」というコメントとともに、塁審がジェイムス・ジョイスという名前(!)だったことを記憶に残るものとして紹介している。もちろん、数十万試合が行われたなかでの偶然の不可思議を、オースターは、自分の世界を積み上げる要素としているわけだ。この野球の記録への耽溺が、どうしようもなく悪い方向に暴走したのが、『Sunset Park』でもあった。(ところで、先日、ダルビッシュ有が完全試合を逃したことに、オースターは注目しただろうか?)

その他、備忘録として。

○友情と愛情について
・男性が女性と寝るのは、彼女と話をしたいからである。寝なければ女性と友達にはなれない。【クッツェー】(そうかな???)
・つまりそれは、もし男性だったら友達にはならないような女性を妻にしてはならない、ということだ。【オースター】
・友情とは礼儀であり、親切であり、安定である。お互いに怒鳴りあうような者が友達であり続けることは難しいが、毎日怒鳴りあう夫婦が幸せなこともある。【オースター】(そうかな???)
○オースターはどこかに行くたびにチャールトン・ヘストンに遭遇した。(だからどうした?)
○映画『ルル・オン・ザ・ブリッジ』の主演女優は、当初はミラ・ソルヴィーノではなく、ジュリエット・ビノシュを計画していた。(ビノシュであれば、チャーミングな作品ではなく、より奇妙な味が出ていたかもしれない?)
○クッツェーはジャック・デリダを愛読している模様。
○ふたりとも、自作へのレビューを異様なほど気にしており、酷評されると殺意すら抱いている。なんでもノーマン・メイラーは、80歳のとき、悪評を書いた批評家の腹を殴ったそうで。
○イスラエルとかつての南アフリカ(アパルトヘイト)の排外主義の比較。ユダヤ系のオースターが、南アフリカは国内の問題にとどまるのに対し、イスラエルはそうでないと発言。クッツェーは、南アフリカへのロシアやキューバの介入などを紹介。
○映画化されたクッツェー作品『恥辱』では、ジョン・マルコヴィッチが主演をつとめているのだが、クッツェーはそれがミスキャストだと発言。「Yes, John M. was miscast, but his performance was more subtle and less mannered than most of the things I've seen him in over the past few years --- good enough, in any case, not to destroy the mood of the story.」(この映画のDVDを買おうと思ったが、日本への輸入ができなかったことがある)
○オースターは携帯電話を使っておらず、逆に、昔のタイプライターを入手して喜んでいたりする。しかし、小説世界には新しい技術を取り込もうとしている模様。何となれば、それが現代のライフスタイルだからである。それに対し、クッツェーは断固として拒否。

など。

最近のオースターの作品に馴染めないといいつつ読んでいるわけだが、やっぱり、もうしばらくは読まない。

●ポール・オースターの主要な小説のレビュー
『Sunset Park』(2010年)
『Invisible』(2009年)
『Man in the Dark』2008年)
『写字室の旅』(2007年)
『ブルックリン・フォリーズ』(2005年)
『オラクル・ナイト』(2003年)
『幻影の書』(2002年)
『ティンブクトゥ』(1999年)
○『ルル・オン・ザ・ブリッジ』(1998年)
○『スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス』(1995年)
○『ミスター・ヴァーティゴ』(1994年)
○『リヴァイアサン』(1992年)
○『偶然の音楽』(1990年)
○『ムーン・パレス』(1989年)

『最後の物たちの国で』(1987年)
○『鍵のかかった部屋』(1986年)
○『幽霊たち』(1986年)
『ガラスの街』(1985年)
○『孤独の発明』(1982年)


ブーガルー・ジョー・ジョーンズ『Right on Brother』

2013-04-14 09:44:25 | アヴァンギャルド・ジャズ

Boogaloo Joe Jones (g)
Rusty Bryant (ts, as)
Charlie Earland (org)
Jimmy Lewis (fender bass)
Bernard Purdie (ds)

ブーガルー・ジョー・ジョーンズ『Right on Brother』(Prestige、1970年)を聴く。

ざっくり言えば、普通のソウルフルなジャズなのだが、ここでは普通とはコテコテを意味する。コテコテでなければ困る。要は癖になる食い物である。ギターとオルガンとは、カレーとカツのようなものだ(違う?)。

ブーガルー・ジョー・ジョーンズのギターは、線が太いシングルトーンが特徴的で、機敏な早弾きも含め、油が塗られた厚手の真新しい板バネのようだ。彼のことをピーター・バラカンがどこかで褒めていて気になってはいたものの、今に至るまでほとんど聴いてこなかった。大後悔。

そして琴線に触れまくるのは、バーナード・パーディーのドラムス。曲ごとに路線を変え、マンネリと言われようが関係なく、キメキメのフレーズを開陳する。ほとんど芸人である。2002年にロンドンで観たときのステージも、芸人魂を爆発させる爺だった。浅川マキがもっとも好きなドラマーだったというが、確かに、後期のロック味のマキさんと共演する姿を観たかった。

●参照
リューベン・ウィルソンにお釣りをもらったこと