Sightsong

自縄自縛日記

アントニオ・ネグリ講演『マルチチュードと権力 3.11以降の世界』

2013-04-06 15:35:39 | 政治

アントニオ・ネグリが初来日している。2008年には政治的な理由によってヴィザが発行されず、そのつぎは震災の影響で中止、今回は「三度目の正直」といったところ。とはいえ気がついたら講演会の抽選が終了していたという体たらく、ネット中継で、1時間弱の講演を聴いた。

ネグリは、以下のようなことを話した。

○今世紀に入り、グローバリゼーションを掲げる歴史家たちが楽観的に過ぎたことが明らかになった。2001年の「9.11」、アフガニスタンやイラクでの戦争、2008年の世界金融危機、そして2011年の「3.11」。これらは、私たちが文明の限界の前に立っていることを示すものだった。
○ヴェネチア・ビエンナーレに参加した建築家・伊東豊雄による「みんなの家」は、<コモン>という側面での住居モデルを示し、破局の恐怖に見合う深さをもつ希望の息吹を示すものでもあった。
○<カテコン>(katechon)という概念がある。カール・シュミットも注目した、世界の終りを阻む力である。しかし、それだけでは不十分だ。私たちは、文明の限界からの積極的な脱出を実践しなければならない。新しい世界を創出し、再生の可能性を模索しなければならない。
○新たな世界は、個の<特異性>(singularity)の集合体たる<マルチチュード>を基盤とする。ここには、いささかのユートピア性もない(現実的なものでありうる)。
○<マルチチュード>は、脱・構成でなければならない。それゆえに、<持てる者の個人主義>に、<リヴァイアサン>に、<金融>に、<技術>に、抵抗される。
○<マルチチュード>への批判がある。それは、①危険な群衆と化す、②善と悪とに分裂する、③結局は統治の形態と化す、といったものだ。
○批判①に関して これまでの統治においては、<公>と<私>とが歪んだ形で分かたれ、それがネオリベラリズムによって極限まで推し進められていた。しかし、所有者が<私>たる世界は終焉を迎えつつあり、その代わりに、<認知労働>が社会を変えつつある。これまでの、閉ざされた個人から、ネットワーク化された<特異性>へとシフトするのである。
○批判②に関して 確かに、個々の欲望によって駆動される世界では、善の<マルチチュード>と悪の<マルチチュード>とが生まれることは回避しがたい。しかし、<マルチチュード>は<コモン>に結びついている。無数の<特異性>が交差し、出逢い、<コモン>という織物が生まれるものだ。この織物は、<特異性>の断片化・分散化によって、なかなか生まれないかもしれない。だが、この動きはずっと続くのである。やがては、<連帯性>が支配的となり、<通底性>が生まれることだろう。
○批判③に関して <マルチチュード>は統治機構の提起にとどまらない。<特異性>を<マルチチュード>の身体内部に作ることができるか、それにより<マルチチュード>が自立できるか、それがカギとなる。
○「3.11」によって顕在化した<原子力国家>の本性とは、「国家というものが社会を抑制でき、資本主義の優位性を示すことができる」という幻想である。この国家のもとでは、市民は、生きるか死ぬか、危険か死かという二者択一を迫られる。
○<原子力国家>の危機が発生したのが、たとえば「アラブの春」に象徴されるような<主権国家の危機>と並行していることは、偶然ではない。そのようななかで、<金融>も、低成長においても自立しうることをヒステリックに主張している。これらは、<特異性>や<マルチチュード>に、統治機構の中心の座を譲ろうとはしない。
○<生政治>的な人間像は4つある。それは、①債務を抱える人(オカネに服従する人)、②メディアに媒介される人(真理の歪曲に服従する人)、③安心を保証される人(国家統治により発生する治安に恐怖する人)、④代表される人(制度構築の偽りの規範に基づき、矛盾の総体を総括している)、といったものだ。これらは、馬鹿げたものとして、乗り越えられなければならない。
○<マルチチュード>の確立による<コモン>を基盤としたデモクラシーの実現を前にして、皆、深刻な不確実性と方向感覚の喪失に直面し、途方にくれているようだ。しかし、これは、希望にも転換しうる。
○近代以降の憲法には、<コモン>が入っていなかった。<コモンの憲法>が必要である。<コモン>の財産は、共通の富に従属する。科学技術さえも、<コモン>を超越するものではない。これによって、<知>を、みずからの手に取り戻さなければならない。
○従来の<固定資本>と<可変資本>は、その性質が異なるものとなってきている。<可変資本>は、<認知労働>を取り入れるべきであり、<固定資本>は、<特異性>の義手・義足とならなければならない。
○そして、<コモンの通貨>も必要である。従来の通貨ではなく、資本主義を乗り越えるべき尺度である。
○<コモン>を如何に作り上げるか。<コモン>はユートピアではない。私たちには絶えざる想像力が必要だ。

といったところ。

これまでわたしが感じてきた違和感は、<マルチチュード>は組織化されてナンボだといった感覚だった。おそらくは、ネグリのいう批判③に相当するものだろう。なるほど、成熟した思想となっているように思われる。納得しながら聴くことができた。

ただ、<科学技術>や<金融>に関しては、本人が否定する浅薄なユートピア思想の裏返しに過ぎないレベルのものだということは、あまりにも明らかだろう。ほとんど、下らぬ陰謀論の一歩手前である。しかし、これは、あくまで従来の<帝国>や<ネオリベラリズム>に抗するための対立軸であるととらえるべきだろう。その意味で、大変すぐれた思想の提起だと思えた。

●参照
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(上)
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(下)

ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Mechanical Malfunction』

2013-04-06 10:21:44 | アヴァンギャルド・ジャズ

Weasel Walter (ds)
Mary Halvorson (g)
Peter Evans (tp)

ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Mechanical Malfunction』(Thirsty Ear、2012年録音)を聴く。

同メンバーによる前の作品『Electric Fruit』(2009年)では、さまざまな音色やシーンを次々に眼前(耳前?)に展開してくれて、和音のコードのみならず、ジャズというコード(共通言語)からの逸脱も見えて愉しかった。

本作では、さらにその意思をあけすけに開示しているようで、聴いていて、こちらの脳が分裂し、雲散霧消するプロセスが愉快である。もはや、大きな物語(これだって、コードである)による回収を許さないのだ。ウォルターの遊び心満点のドラムスも、ハルヴァーソンが自在に音色を変え続けるギターも、それから、管という性質(これだって、やはり、コードである)からの逸脱と回帰を余裕でおこなうエヴァンスのトランペットも、何かに還元されるわけではない。

だからといって、これをもって「いまのジャズ」などと言ってしまっては、廻り廻って、歴史や時間や物語やジャズというコードに寄り添ってしまう言説に堕すことになる。面白いものである。聴きながら自動的に脳内で何かに変換しようとすると、タイトル通り、「機能不全」になるわけだ。

●参照
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Electric Fruit』
ピーター・エヴァンス『Ghosts』
ピーター・エヴァンス『Live in Lisbon』