平井玄『彗星的思考 アンダーグラウンド群衆史』(平凡社、2013年)を読む。
「「考える」とは蛇行すること。生きて死ぬことも同じである。」
ここに収録されているテキストは、思考の蛇行録である。文字通り、蛇が空を飛んで高みからものを言うことはない。ときに宣託めいて聞こえることばも、それは地上から発せられている。
2011年以後、たとえば、次のような面々が想起の対象となる。「タカを括る」ことも、歯切れのよい分析的な総括を行うことも拒否した面々である。
関東大震災(1923年)時に弟を虐殺され、労働運動に身を投じるものの、三・一五事件(1928年)で逮捕され、「転向」した南喜一。
絶えず新しいシナプスを形成することをアジテートしたドゥルーズ=ガタリ。
徹底して雑踏に身を置いたライター・朝倉喬司。
高踏的なインテリとしてではなく、肌感覚であやういアジア主義を発した竹内好。
水俣において、語りによって「低い崇高」を創り出そうとした石牟礼道子。
日本の裂け目を敢えて開いて見せようとした谷川雁や平岡正明。
地上に居ながらにして同時に宇宙を考える思考は、有象無象の胎動をとらえようとしている。そして、有象無象のもたらすものにより、「祖父k」の夢を強迫的に実現しようと試みる迷惑な「孫a」は、いずれ、「暗欝な空」を見ることになるだろうと仄めかしている。
それがどのような形になるかわからないが、確かに、その幻視は絶望であると同時に希望でもあるように思える。絶望のなかには、日本が遠からずイスラエル化することも含まれるのだろう。
●参照
○平井玄『愛と憎しみの新宿』