西川武信『ペリー来航 日本・琉球をゆるがした412日間』(中公新書、2016年)を読む。
1853年5月、琉球王国にペリー艦隊があらわれた。日本・清の両国に帰属するような形でバランスを取っていた海の国家・琉球王国にとっても、これは相手として大きすぎた。結局は翌1854年7月に「琉米修好条約」を結ぶことになるのだが、著者によれば、このときの琉球の対応が敢えて組織的に下位の者によってなされたことを含め、琉球が国際法上の主体となれるのかはっきりしない面もあったのだという。しかし、少なくとも、アメリカは独立国家として琉球王国と相対した(琉球新報社・新垣毅編著『沖縄の自己決定権』)。それにより、琉球王国をアメリカの戦略拠点とするという計画は具体化されていった。この条約は1879年の第二次琉球処分(日本による強引な併合)によって無効となるのだが、琉球=沖縄をアメリカの戦略拠点とする歴史は現在に至るまで続いている。
ペリー艦隊は、琉球のあとの1853年7月に東京湾にもあらわれる。しかし、19世紀になって、アメリカのみならず、ロシアやイギリスも関東近辺にちょっかいを出しに来ていたから、それはある程度予想された驚きであったに違いない。既に1840年代に、東京湾の外湾(富津と観音崎を結んだ線より南側)からやや内湾にかけて、防衛拠点たる砲台がいくつも設置されていたからである。
本書には、「近海見分之図」(1850年)に収録された絵が収録されており、これを見るといかにも素朴で、相手のことをよくわからぬまま整備されたのだなと思わされる。品川台場(いまのお台場)は、ペリー再来に向けて築造されたものだが、実際のところ、ほとんど防衛のためには役に立たない代物であったらしい。それよりも、この姿勢により人心を安定させることが目的でもあり、土木建設の好景気が生まれたという。(要するに、いまと似たようなものだということである。)
市民のペリー艦隊見物熱はたいへんなものであったようだ。同時に、瓦版や狂歌などの風刺も流行する。これがまた面白い。人びとは国難を醒めた目で見つめ、実相を見抜いてもいた。たとえば、東京湾の警備を慌てて進める姿は、次のような狂歌で茶化されている。
「大筒に鼻つまむらん毛唐人、我屁のもとの武威におそれて」
●参照
琉球新報社・新垣毅編著『沖縄の自己決定権』(ペリーと琉球)
石川真生『大琉球写真絵巻』(ペリーと琉球)
ジャン・ユンカーマン『沖縄うりずんの雨』(ペリーと琉球)
製鉄の映像(2)(韮山の反射炉が砲台製造のために使われる)