大島渚が日本テレビ「ノンフィクション劇場」(プロデューサー:牛山純一)の枠で作ったドキュメンタリー、『青春の碑』(1964年)を観る。
北朝鮮地域に生まれ、満州で働き、朝鮮戦争(1950年~)の後、韓国の平沢(ピョンテク)に住みついた男・方。彼は朝鮮戦争で孤児となった子どもたちを引き取り、共同生活をするとともに一緒に仕事をしている。
ある日の「東亜日報」の記事。韓国の四月革命(1960年)において学生デモに参加し、右腕を失った女学生・朴が、今では売春をして生計を立てているというのだった。男は驚き、使命感から本人や家族を訪ね、話を聴く。革命により独裁者・李承晩は下野し、傷ついた朴は新政権から顕彰されたものの、父と姉の生活が成り立たないための行動であるというのだった。方はラジオを使って援助を呼び掛け、それで借金を返済、朴を自分の施設に呼ぶ。次第に仲間ができ、仕事を覚えていく朴。だが、やはりそれでは生計を立てることができず、朴はもとの働き場所へと戻っていく。
日本侵略により満州から韓国へと流れ、米ソが頭越しに引いた境界線のために、北に残る親族の消息すらわからない男。歪んだ政治と対峙したために傷つき生活ができなくなった女。その中で、日本は、韓国独立後、親米・親日の李承晩を支え、朝鮮戦争の特需で発展した。ここに登場する人たちが辛酸を嘗めるのは明らかに不条理であり、大島渚はその矛盾を厳しく突く。
しかし、ドキュメンタリー制作の翌年、日韓両国は民衆の頭越しに日韓基本条約(1965年)を結ぶことになる。そのことによる歪みはいまだに噴出し続けている。男が住む平沢(ピョンテク)が、在韓米軍の移転のターゲットになっていることも、終わらない問題を象徴しているようだ。
大島渚は、翌年の『ユンボギの日記』(1965年)において韓国の生活のあり様をとらえ、また、『絞死刑』(1968年)では在日コリアン差別の問題に迫っている。短いドキュメンタリーではあるが、韓国・朝鮮に向けられた大島の重要な仕事のひとつだということができるのだろう。
●参照
○大島渚『アジアの曙』(1964-65年)
○大島渚『新宿泥棒日記』(1969年)
○大島渚『少年』(1969年)
○大島渚『夏の妹』(1972年)
○大島渚『戦場のメリークリスマス』(1983年)