沖縄への行き帰りに、崎山多美の小説『ムイアニ由来記』とエッセイ集『コトバの生まれる場所』を読む。
『ムイアニ由来記』(1999年、砂子屋書房)には、2編の作品が収録されている。
「ムイアニ由来記」においては、ひとり暮らしの女が、異次元からの声に呼ばれ、封建的なイエへと連れて行かれる。お前はかつて子を産んだのだ、それゆえイエを継がなければならぬ。記憶にないことだが、女は、わけのわからない力に衝き動かされ、運命のクレバスに自ら転がり落ちてゆく。この物語に見え隠れするなにものかの意思は、きっと、女性という存在の理不尽さと関連付けられている。
「オキナワンイナグングァヌ・パナス」は、奇妙な少女、その母、少女と心を通わせるオバアの物語。一方、日常生活はしらじらと流れていく。寂しいのはあなただけではない、と言われているようだ。
現在出回っている崎山多美の小説は、最新の『月や、あらん』くらいであり、amazonでも、他には上の『ムイアニ由来記』しか新刊で入手できない。編集者のHさんから置いてあったと聞き、期待して足を運んだ那覇のジュンク堂では、『コトバの生まれる場所』(2004年、砂子屋書房)を発見することができた。
収録されたエッセイを読み進めるうちに、『月や、あらん』や『ムイアニ由来記』において薄々と感じていた印象が明らかになってきた。
この人が不信のまなざしを向け続ける対象は、常に言葉である。まったく自律的ではなく、出鱈目で、しばしばそれを使う者も向けられた者も裏切る、言葉というもの。しかし、その一方で、この人自身の存在が依って立つ足がかりが、言葉でしかないのである。極めて危うい時空間において、それでも、小説家は言葉を発し、漂流する言葉を糊でつなぎ、破く。小説の登場人物たちが、言葉の波動で形成されているように感じられるのも道理であった。
ラテンアメリカ文学へのシンパシイも嬉しい側面だ。「ムイアニ由来記」では、新潮文庫版のマリオ・バルガス=リョサ『緑の家』(復刊された岩波文庫の2分冊版ではない)を冒頭に登場させ、このエッセイでは、オクタビオ・パスやフリオ・コルタサルにも言及している。しかし、崎山作品の印象は、これらのラテンアメリカ文学の代名詞のように使われた「魔術的リアリズム」とは異なる。崎山作品においては、血も汗も、重力も感じられないのである。むしろ、重力を失わしめる北斗琉拳の作りだす時空間のような・・・。
●参照
○崎山多美『月や、あらん』