重田園江『ミシェル・フーコー ―近代を裏から読む』(ちくま新書、2011年)を読む。
これは普通の概説書ではない。第一に、フーコーの生涯や思想・著作をざっと追ったものではなく、むしろ、『監獄の誕生』(1975年)(>> リンク)へのラヴレターである。第二に、同書を中心として、フーコーの思想を著者自身のことばで説こうとしたものであり、これは情報の整理・再提示などよりも何倍もの思考と労力を必要とするに違いない。それゆえ、フーコーの晦渋かつ長いテキストを苦しみながら読んだあとであれば、本書の楽しみは倍増する。
偉大なる素人のフーコーは、「ものの見え方」に根本的な異議申し立てを行った。この「ものの見え方」こそが知の体系なのであり、既存の「ものの見え方」に依拠するアプローチでないことが、フーコーを、いわゆる専門家ではなく、偉大な素人なさしめたのだった。そして、「ものの見え方」が突き崩されていき、立脚点を失うことが、フーコーを読むことの醍醐味であることも、本書のメッセージである。
『監獄の誕生』において示されたのは、近代国家の規律型統治が、何も法制度や上からの権力体系の整備が進んだことによるのではなく、どんなミクロな単位においてもトポロジカルな権力関係を生み出すようなあり方によって成立していることだった。本書が説くように、「監獄」自体が機能しているのではない。むしろ「監獄」による犯罪抑止・犯罪者矯正は失敗したシステムなのであり、それだからこそ、すべての人間のすべての活動がグレーゾーンに入り、「上から」でない統治が成立する。著者曰く、「みみっちい工夫」の集積体である。
著者は、考えをさらに展開し、権力と政治を「究極の状況や非常時における最悪の事態」を参照点としてとらえることを、幼稚なものとみなす。陰謀論もしかりである。わたしはこの指摘に半分は反発を覚えつつも(なぜなら常に最悪の状況が見え隠れし、それへの抵抗が最悪の事態を回避するものであるから)、また半分は納得する。したり顔で、主体も具体的なプロセスも曖昧なままに陰謀論が語られることは、よくあることだからである。
「こうした見方が、国家と政治と権力を「大人」のやり方で解読する試みを妨げてきたのではないか。政治が生み出す究極の姿として例外状態やむき出しの生があることを認めるにしても、なぜそこを出発点に政治を語らねばならないのか。むしろ日常性の側から、通常状態における政治と権力の側から思考し、日常から非常時へと接近してゆくべきではないのか。」
●参照
○ミシェル・フーコー『狂気の歴史』(1961年)
○ミシェル・フーコー『知の考古学』(1969年)
○ミシェル・フーコー『ピエール・リヴィエール』(1973年)
○ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(1975年)
○ミシェル・フーコー『コレクション4 権力・監禁』
○ミシェル・フーコー『わたしは花火師です』(1970年代)
○ジル・ドゥルーズ『フーコー』(1986年)
○桜井哲夫『フーコー 知と権力』
○ルネ・アリオ『私、ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』(1976年)