Sightsong

自縄自縛日記

ビール日和、キンカン日和

2009-04-05 16:54:29 | 食べ物飲み物

夏に向けて、チェリー味の「クリーク」という、ベルギーではお馴染のビールを仕込んだ。(日本の酒税法では、1%未満の酒しか作ってはならないことになっているので、以下もそのように納得してください。)

麦芽やホップでできた酵母を湯煎し、お湯を加える。さらに砂糖と水、最後にイーストを入れてまずはお終い。いまから10日くらいで1次発酵が終わる。それを瓶詰めしたらしばらく2次発酵。

これが昨日のこと。

近所のスーパーマーケットで、鶏のキンカンを見つけた。何だか懐かしくて買ってしまった。モツとキンカンを、酒、醤油、砂糖、生姜と一緒に10分ほど煮つけた。アクがたくさん出た。自分でキンカンを料理するのははじめてだ。

焼きそばとキンカンを昼ごはんにした。ここにビールがあれば最高な組み合わせなのだが、クリークはしばらく待たなければ飲めないのだった。

気分はもうブリュッセルのバーに飛ぶ。2004年の秋に訪れたとき、安くて激しく旨いのでひたすら飲んだ。ああ出来上がりが楽しみだ。


シメイとムール貝 Leica M3、Summitar 50mmF2、スペリア1600


バー Leica M3、Summitar 50mmF2、スペリア1600

●参照
前田俊彦『ええじゃないかドブロク
科学映像館の映画『ビール誕生』


Jupiter-12で撮る行徳の寺町

2009-04-05 08:26:26 | 関東

旧ソ連製のレンズ、Jupiter-12(35mmF2.8)を愛用している人がどれだけいるのか知らないが、随分使いにくい玉である。戦前のツァイス・ビオゴンのデッドコピーらしく、光学的な設計をそのままにして戦後長いこと作られたことになる。このあたりは、大戦末期にソ連がツァイスの工場をそのまま接収し、使い続けたためであり、他のカメラやレンズにも同じような運命を辿ったものがある。もっとも、小林孝久『カール・ツァイス』(朝日新聞社、1991年)によると、ソ連が到着する直前に、主だった技術者たちは西側に逃げたそうなので、いびつな独自進化、あるいは退化、を遂げたのだと言うこともできる。

まず、半球状に豪快に張り出した後玉が凄い。カメラに装着するときに異常に気を使ってしまう。また、レンズの前玉付近に引っ込んでいる絞りが操作しにくく、人差し指の腹でねじらなければならない。これについては、40.5mmのフィルター+40.5→49mmのステップアップリングをフード代わりにして、絞りを動かしやすく工夫している。

あと、致命的なことに(そして旧ソ連製のレンズとカメラに共通して)、精度のばらつきが非常に大きい。距離計の精度が要求されるライカマウントだからなおさらだ。私のJupiter-12は、買っては売り、3代目にあたる。

写りにもばらつきがあり、前回使っていた奴は、ピントがいまいち来ずに困った(距離計のずれとは別)。いま使っている玉はシャープだ。色も悪くない・・・スキャナーを介するとまったく別物になってしまうので伝えにくいが。建物なんかを入れると、割に大きな糸巻型の歪曲収差があることがわかる。


斑入り椿 Leica M4、Jupiter-12、トレビ100、ダイレクトプリント


地蔵 Leica M4、Jupiter-12、トレビ100、ダイレクトプリント


レトロ Leica M4、Jupiter-12、トレビ100、ダイレクトプリント


絞りを操作しにくい


盛り上がる後玉


高崎宗司『検証 日朝交渉』 猿芝居の防衛、政府の御用広報機関となったメディア

2009-04-04 18:58:18 | 韓国・朝鮮

今後の国際交渉に向けたネタ作り、あるいは瀬戸際外交の一環として人工衛星を発射しようとする国家。もちろん「万が一の危険」はあるし、約束を破っている以上、紳士的なことではない。だが、狂える国家だ、今すぐにでも軍事力で叩き潰してしまえと言わんばかりの論調がテレビや週刊誌といったメディアを支配していて、はっきり言って、私にはそちらのほうが到底まともとは思えない。

少なくとも、以下のように疑って考えているのは私だけではないだろう。

― SM3やPAC3は試射の予算を確保することが難しかった。この機会は格好の軍事演習となりうるのではないか。
― 地域に対して住民の危険を煽ることで、有事法制の一環である国民保護法(国家が住民を守るのではなく、実際には民間が防衛する)の意義を持たせる意図があるのではないか。
― 韓国と米国が合同軍事演習を行っていたことが直接のきっかけだが、最近そのことをあえて軽視しているのではないか。人工衛星が脅威だというなら、軍事演習も向こうにとっては脅威だろう。
― 人工衛星であることがわかった前も後も、軍事用の可能性をことさらに残して報道しているのではないか。
― 日本国内に落ちる可能性は極めて少ない、と言いながら、ことさらに不安と危機感を煽るのは何故か。仮に撃墜したら、その破片が落ちてくるリスクのほうが高いというではないか。さらに、相手国を挑発し返すことはさらなる危険を招くのではないか。
― すべては、日本(と米国)の軍備強化に向けたアリバイ作り、国民のコンセンサス作りのための動きなのではないか。喜ぶのは日米の軍部だけではないか。
― そういったことが、何故一部で言われているに過ぎないのか。

ここまで険悪になっている大きな原因は、拉致被害者の存在にあることは明らかなのだが、またその大犯罪の非が、かの国にあるのが確かなだけに、まともな外交努力が放棄されてきたこともまた明らかに思える。少なくとも、拉致被害を政治利用してステイタスを固めた安倍元首相のような存在に象徴される歪んだ姿がある。

高崎宗司『検証 日朝交渉』(平凡社新書、2004年)により、戦後の経緯を辿っていくと、関係のアンバランスさが明らかに見えてくる。戦争を手招きしている者は、北朝鮮ではなく、むしろ国内にいるということだ。

「戦前・戦中の日本は、朝鮮を植民地として支配していたのである。北朝鮮の国民に対して植民地支配の謝罪と補償をし、国交を樹立しなければならないだろう。」

「この十年余り、戦後補償問題が東アジアの大きな問題となったことにも明らかなように、朝鮮の民衆と和解するためには、どうしても日本の植民地支配に対する謝罪と補償についての論議が欠かせないからである。今日、これらの議題についての論議が忘れられ、拉致問題で「軟弱外交」を非難する声だけが高いことを見ると、いっそうその感を深くする。」

「日本側代表団は、拉致問題に対するマスメディアの反応に強い影響を受けた。「相手に向かって机を叩いて怒鳴ってりゃいいだけでした」と交渉担当者は語っている。」

「脱北者の苦労、飢え、物乞いする子供たち、収容所の悲惨な生活が脱北者によって語られた。また、北朝鮮のテレビ番組を編集して、軍事パレード、「喜び組」のダンス、歌い踊る子供たちの作り笑い、アナウンサーの大仰な抑揚などを興味本位に伝えた。
 等身大の北朝鮮の人々の姿は見えてこない、北朝鮮に対する拒否感・蔑視が刷り込まれていくものばかりであった。これらには、日本と北朝鮮との間に起こった歴史も完全に抜け落ちていた。」


国宝・阿修羅展

2009-04-04 11:03:18 | アート・映画

半休を取って、「国宝・阿修羅展―興福寺創建1300年記念」を観ようと上野の東京国立博物館に足を運んだ。花見シーズンの上野公園だから、平日なのに人が沢山いて、「30分待ち」だった。やめるのも悔しいので本を読みながら並んで入った。


すごい人

興福寺は、710年、藤原京から平城京への遷都時に移転されている。(なお、土産売り場には、大騒動になったキャラクター「せんとくん」のグッズが躊躇なく売られていた。) 移転ではあるが実質上の創建のようで、クーデターで政権を奪取した藤原鎌足の息子・藤原不比等による。その後、藤原氏の氏寺になったため、奈良時代後期には大勢力となり、平安初期の新興の天台や真言に対する最大の批判勢力となった(末木文美士『日本仏教史』、新潮社、1996年)。とは言っても、多様化は密教によってはじめて拓かれたわけではなく、この展示でもインド由来の八部衆や四天王など、とても多様なものだったとわかる。阿修羅も八部衆のひとつである。

この八部衆が面白い。象のかぶりもの、鳥頭、頭上にとぐろを巻く蛇、一角など、ついにやにやして鑑賞する。八部衆は、「少年という未熟な一時期の姿」「憂いや不満といった負の表情」(丸山士郎、『うえの』2009年4月)ということであり、そのような発展途上の姿であると思って観るとなお楽しい。

十大弟子は、6人が展示されていた。これもそれぞれ表情や法衣の造形が異なっている。スリランカ・ポロンナルワのガル・ヴィハーラにあるアーナンダ像(阿難)と比べてみたかったが、ここには展示されていなかった。もっとも、伊東照司『スリランカ仏教美術入門』(雄山閣、1993年)によればアーナンダだが、いまではガル・ヴィハーラにある3体すべてが仏陀だと聞いた。


ガル・ヴィハーラ、ポロンナルワ、1996年 PENTAX ME Super、FA28mmF2.8、Provia100

最大の見もの、阿修羅立像のまわりには人垣ができていた。ただ、周囲をまわることができるし、ちょっと高いところからも見下ろせるので、無理して最前列まで入り込むことはなかった。何だか居るべきところから切り離されて、哀れに見えてしまう。

ミニコミ誌『うえの』(2009年4月)に南伸坊が笑える小文を寄稿している。その指摘によると、

― 阿修羅像は高足蟹に似ている。(西伊豆あたりの世界最大の蟹だそうだが、私は食べたことがない。)
― 脇の下がエロチック。
― 顔の眉と眉間が人々をとらえてドギマギさせる。ためしに何かで眉と眉間を隠すと、とても涼やかな表情になる。

だそうである。「生身の人間がするのは不可能」な表情だそうだ。じろじろ見ていると、想像力が貧困なためか、貴乃花とか夏目雅子とかを思い出す。脇の下はエロチックというか、確かにユニークだ。二の腕の向きが下、上、下の順。

四天王の造形も見事だった。最近、四天王というと、中国浙江省の阿育王寺(アショーカ王寺)、天童寺や北京のチベット寺院・雍和宮なんかで、ずん胴の漫画的な奴ばかりを見ていたので、なおさら肉感的な彫刻の印象が強い。

もっと空いている時間を狙って行けばよかった。

ところで、アメ横入口あたりの「牛の力」で牛丼を食べてアメ横を歩いていると、鞄屋の「万双」を発見した。以前からウェブでちらちら見ては良いなあと思っていた鞄を作っている。実は鞄というものが好きなのだ。ボストンバッグを見せてもらったら頭が溶けてしまった。勿論高いので、そうそう買えるものではないのだが。うーん。


新東宝(1) 阿部豊『細雪』、溝口健二『雪夫人絵図』

2009-04-02 23:22:08 | アート・映画

私にとって、新東宝のイメージは、中川信夫のカルト映画『地獄』に代表されるようなマガマガしいものだ。だが、そういった路線以外にも戦争もの、歌謡もの、文芸ものなどがあって、実は多彩である。CS局のチャンネルNECOのプレゼントで招待券が当たったので(出したことも忘れていた)、六本木シネマートで2本ほど観た。

阿部豊『細雪』(1950年)

のちに市川崑によってもつくられるが、これは最初の映画化。大阪の没落しつつある旧家の四姉妹の行く末を描いている。関西弁のまったりしたやり取りが独特のテンポを生み出し、こちらを何故か落ち着かせるのは愉快だ。因襲や関係にがんじがらめに囚われ、四女役の高峰秀子が爛漫で可愛い姿から、荒れて家から追われる姿までを演じるのを観ると、やっぱり上手い女優だなという印象を強くおぼえる。

田舎で育ったひとならわかると思うが、古き悪しき日本のイエとムラは理性も感情も本当にがんじがらめなのであって、当然そこには差別も隠しようも無く存在する。何だか身につまされてしまうぞ。

ところで、高峰秀子が結婚を決意する相手のカメラマン(病気で死んでしまう)が使っていたカメラは、1930年代のコンタックスI型だった。真っ黒の、フィルム巻上げノブがカメラの前面にある奇妙なタイプだ。この初期型に触ったことはないが、間違いなく巻き上げは固い。映画でも、カメラマンは巻き上げにくそうにしていた。映画は1950年だが、話の舞台は戦前の40年代であり、時代考証上は問題なさそうである。


溝口健二『雪夫人絵図』(1950年)

放縦な故人の父と夫によって、旧家は熱海の家を残して没落する。妻(小暮実千代)は、理性では夫と別れたいと切望しているが、性欲のためにそれが叶わない。熱海の家は夫に取り入った男女に乗っ取られ、妻は死を選ぶ。もう夢も希望もなく、救いようのない話だ。

物語の悲惨さはともかく、最初から最後まで、トーンが出た美しいモノクロ画面に眼が釘付けになる(本当)。熱海の海岸をバックに丘の上の家を撮ったシーンなど、明るい背景を焼きこんだように露出が揃っていて見事だ。暗い家屋のなかの光と影のバランスも素晴らしい。おそらくはレンズの絞りをかなり開けていて、前ボケと後ボケとが強調された撮影がなされている。また、絞り開放ということもあって、収差が思い切り残っていて、ピントが合っていてもフレアがかっていて柔らかい描写は、まさにオールドレンズの魅力である。私の持っているレンズでいえば、戦前のライカレンズ・ズミターなんかの雰囲気に共通するものがある。

あとで調べてみると、宮川一夫が溝口と組んだのは何年か後だ。この映画では、小原譲治というカメラマンが撮影している。果たしてこの凄い画面、溝口と小原のどちらが支配したのだろうか。もちろん、不在の瞬間の気配を撮る方法や、クレーンを使った上からの湖畔の撮影などは、溝口の意志に違いないとは思うが。良い物を見せてもらった。


萩原進『農地収奪を阻む―三里塚農民怒りの43年』

2009-04-01 23:38:35 | 関東

インターネット新聞JanJanに、萩原進『農地収奪を阻む―三里塚農民怒りの43年』(編集工房 朔、2008年)の書評を寄稿した。

>> 『農地収奪を阻む』の感想

 成田空港の建設が現在の三里塚の地に突然計画されたのは、1960年代のことである。それまで、近隣の富里、浦安沖、羽田拡張などの案があったものの、最終的には、一部の政財界のみによる決定がなされた。国策や一部の層への利益を最優先し、住民のことは一顧だにしないあり方は、現在の基地建設を巡る状況を見ても明らかなように、全く変わっていないと言ってもよい。本書は、その優位に立つ権力に40年以上も抵抗し続けている農民による記録である。

 リアルタイムで接してきた世代ならともかく、現在感覚的には、成田空港は三里塚闘争とセットで考えられる存在ではなくなっているのが現状であろう。たとえ知識として知っているとしても、だ。例えば、3月29日に投票が行われた千葉県知事選の候補者たちが、成田空港の発着を増やすことについての考えを回答している(
ちば知事選2009 候補者アンケート『東京新聞』3月26日)。5人のうち4人は、地元への配慮を口にしつつも、あくまで空港機能の増強を謳っている。すなわち、その「配慮」の優先度を低く位置づけたところで、有権者に悪印象を与えないものと想定しているということなのだろう。なお、当選した森田健作候補も、やはり「地元市町と連携を図り」という修飾語を付すにとどめている。

 しかし、三里塚での国家による暴力が過去の歴史でなく、現在も続いていることを知ったならば、多くの有権者の受け止め方は一変するに違いない。三里塚の住民にとって、土地、生活環境、個人史が理不尽に収奪される脅威は、紛れもなく国家権力の暴力やカネの力に起因している。そして、過去の過ちを認め、話し合いによる解決を宣言したはずだが、なお、新たな滑走路を農地や住宅の隣に建設しているのである。昨年、三里塚から移転しないことを「ごね得」と表現した政治家がいたが、実態はまったく逆なのだ。

 本書では、空港建設に抵抗しながら続けている産直方式での農業の経験を元に、日本の農業の歪んだ現状をも示している。減反政策や市場自由化などを通じて進んできたグローバリズムが、いかに危うい世界を作り出しているか、ということである。中国の食品安全性の問題などを契機に、食糧自給率の回復が必要だと叫ばれるようになってはいるが、これとても食糧を確保する上でのセキュリティを主に論じているわけであり、生活基盤としての農業のことに問題意識が及んでいるとは言えまい。その意味で、本書で示されているような経験と提言は、読者それぞれが自分の生活哲学の問題として捉えるべきものではないか。

◇ ◇ ◇

●参照
鎌田慧『抵抗する自由』
鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』
前田俊彦『ええじゃないかドブロク(鎌田慧『非国民!?』)


ジョー・マクフィーとポール・ニルセン-ラヴとのデュオ、『明日が今日来た』

2009-04-01 00:16:24 | アヴァンギャルド・ジャズ

組み合わせが気になって、ディスクユニオンで試聴したところ、すっかりやられてしまって入手した。ジョー・マクフィー(テナーサックス、ポケットトランペット)とポール・ニルセン-ラヴ(ドラムス)のデュオ、『明日が今日来た(Tomorrow Came Today)』(SMJZ、2008年)である。

1曲を除いてはすべてテナーサックスを吹いている。最初のタイトル曲から、エヴァン・パーカーのような微分的な摩擦音を使ったアプローチで、ひたすら格好良い。曲によっては、静寂を活かした調子であり、疲れて帰宅後部屋で聴いていたら、一瞬意識が火星に飛んでいってしまった。また、最後の2曲では楽器を鳴らしきる印象が強く、聴いていて気持ちが良い。当然だが、だからといってバップ的な「ノリの良さ」は無く、繰り返しと発展である。

ポケット・トランペットとドラムスのデュオといえば、ドン・チェリーとエド・ブラックウェルのデュオ『MU』を思い出す。ただ、ここでの演奏は、チェリーのような叙情性に流れるものではない。

ポール・ニルセン-ラヴのドラムスは、オーソドックスな演奏も、多彩な演奏もあり、難なく凄いレベルを示しているように聴こえる。何度も来日しているが、実はまだ実際に観る機会がない。おそらく、録音を聴くようなものを上回って、とてもパワフルなのではないだろうか。

この2人の演奏、変な予定調和が無く、聴きやすいのに過激であり、嬉しくなってしまった。

ジョー・マクフィーの録音は、これまでに『Sweet Freedom - Now What?』(hat ART、1995年)の1枚しか聴いたことがなかった。マックス・ローチに関係する曲を追求したアルバムであり、これも妙だ。妙だ妙だと思いつつ、時折聴いては、ヘンな人だなと思っていた。全体を通じて大きなドラマ性がなく、そのために抑制された、ミニマルな雰囲気を感じていたのだが、これもミクロには偏執している。ローチを看板に掲げながら、グループはマクフィーの木管(テナーサックス、ソプラノサックス、クラリネット)、ベース、ピアノのトリオであり、ドラムスが入っていないのもひねくれている。

追いかけていけば、マクフィーからは楽しい内面を見せてもらえそうな予感がする。