半休を取って、「国宝・阿修羅展―興福寺創建1300年記念」を観ようと上野の東京国立博物館に足を運んだ。花見シーズンの上野公園だから、平日なのに人が沢山いて、「30分待ち」だった。やめるのも悔しいので本を読みながら並んで入った。
すごい人
興福寺は、710年、藤原京から平城京への遷都時に移転されている。(なお、土産売り場には、大騒動になったキャラクター「せんとくん」のグッズが躊躇なく売られていた。) 移転ではあるが実質上の創建のようで、クーデターで政権を奪取した藤原鎌足の息子・藤原不比等による。その後、藤原氏の氏寺になったため、奈良時代後期には大勢力となり、平安初期の新興の天台や真言に対する最大の批判勢力となった(末木文美士『日本仏教史』、新潮社、1996年)。とは言っても、多様化は密教によってはじめて拓かれたわけではなく、この展示でもインド由来の八部衆や四天王など、とても多様なものだったとわかる。阿修羅も八部衆のひとつである。
この八部衆が面白い。象のかぶりもの、鳥頭、頭上にとぐろを巻く蛇、一角など、ついにやにやして鑑賞する。八部衆は、「少年という未熟な一時期の姿」「憂いや不満といった負の表情」(丸山士郎、『うえの』2009年4月)ということであり、そのような発展途上の姿であると思って観るとなお楽しい。
十大弟子は、6人が展示されていた。これもそれぞれ表情や法衣の造形が異なっている。スリランカ・ポロンナルワのガル・ヴィハーラにあるアーナンダ像(阿難)と比べてみたかったが、ここには展示されていなかった。もっとも、伊東照司『スリランカ仏教美術入門』(雄山閣、1993年)によればアーナンダだが、いまではガル・ヴィハーラにある3体すべてが仏陀だと聞いた。
ガル・ヴィハーラ、ポロンナルワ、1996年 PENTAX ME Super、FA28mmF2.8、Provia100
最大の見もの、阿修羅立像のまわりには人垣ができていた。ただ、周囲をまわることができるし、ちょっと高いところからも見下ろせるので、無理して最前列まで入り込むことはなかった。何だか居るべきところから切り離されて、哀れに見えてしまう。
ミニコミ誌『うえの』(2009年4月)に南伸坊が笑える小文を寄稿している。その指摘によると、
― 阿修羅像は高足蟹に似ている。(西伊豆あたりの世界最大の蟹だそうだが、私は食べたことがない。)
― 脇の下がエロチック。
― 顔の眉と眉間が人々をとらえてドギマギさせる。ためしに何かで眉と眉間を隠すと、とても涼やかな表情になる。
だそうである。「生身の人間がするのは不可能」な表情だそうだ。じろじろ見ていると、想像力が貧困なためか、貴乃花とか夏目雅子とかを思い出す。脇の下はエロチックというか、確かにユニークだ。二の腕の向きが下、上、下の順。
四天王の造形も見事だった。最近、四天王というと、中国浙江省の阿育王寺(アショーカ王寺)、天童寺や北京のチベット寺院・雍和宮なんかで、ずん胴の漫画的な奴ばかりを見ていたので、なおさら肉感的な彫刻の印象が強い。
もっと空いている時間を狙って行けばよかった。
ところで、アメ横入口あたりの「牛の力」で牛丼を食べてアメ横を歩いていると、鞄屋の「万双」を発見した。以前からウェブでちらちら見ては良いなあと思っていた鞄を作っている。実は鞄というものが好きなのだ。ボストンバッグを見せてもらったら頭が溶けてしまった。勿論高いので、そうそう買えるものではないのだが。うーん。