Sightsong

自縄自縛日記

マラカイ・フェイヴァース『Live at Last』

2010-11-09 00:25:59 | アヴァンギャルド・ジャズ

稀代のベース奏者、マラカイ・フェイヴァースは2004年1月に亡くなった。ついこの間だと思っていたら、もう6年以上が経っている。鬼籍に入ったというよりは、本人が語っていたように、4万3千年の生涯を終え、シリウスに呼び戻されたと考えるほうが気持ちに馴染む。シリウスは太陽を除けば最も明るい恒星、マラカイは太陽ではなくシリウスなのである。この話に呆れる人は惑星か衛星の石であり続けるがよい。

『Live at Last』(RogueArt、2003年録音)は、文字通りマラカイ最晩年の2003年10月に行われた演奏の記録である。彼が使っていた3番目の名前「マゴスタット」を取って、「マゴスタット・トリオ」名義であり、ハナ・ジョン・テイラー(サックス・フルート・キーボード)、ヴィンセント・デイヴィス(ドラムス)とのトリオによる。

マラカイのベースの音は一聴してあまりにもユニークであって、さまざまな音が亜熱帯の植物のようにぶら下がっている。それでいて豊かなメロディが伝わってくる。ちょうどジャズ・ドラムスがポリリズムとプリミティヴ性を求めてパーカッションと読み替えられていったように。この嬉しさと独自さは、やはり太陽でなくシリウスなのである。これを聴く自分もシリウスでありたいと思えてくる、それがマラカイのあまりにも人間的な音楽か。

サックスのハナ・ジョン・テイラーの演奏を初めて聴いた。発酵食品のような臭~い臭~い音、まるでヴォン・フリーマンだ(調べてみるとやはりシカゴ出身)。チャーリー・パーカーの「Au Privave」では焦燥感たっぷりにいきなり写楽の絵のようにカブきながら全力疾走する。キーボードを文字通り象の鳴き声のように使った「Electric Elephant Dance」もユニークだ。これは好きになってしまうかもしれない。

変人万歳。

●参照
マラカイ・フェイヴァースのソロ・アルバム
アート・アンサンブル・オブ・シカゴ『カミング・ホーム・ジャマイカ』
ワダダ・レオ・スミスのゴールデン・カルテットの映像


林海象『大阪ラブ&ソウル』

2010-11-07 10:11:26 | 韓国・朝鮮

林海象が演出したテレビドラマ、『大阪ラブ&ソウル この国で生きること』(NHK、2010/11/6、>> リンク)を観る。

済州島四・三事件(1948年)から大阪の生野区(昔の猪飼野)、鶴橋へと逃れてきた夫婦。主役はその孫。鶴橋で焼肉屋を営む在日二世の父(岸部一徳)とは、在日コリアンとしてのアイデンティティへの距離がかけ離れている。孫は苦労しらずのボンボン大学生、ブルースハープで生計を立てようとしており、軍政ミャンマーから逃れてきて日本で難民認定されずにいる女性と結婚しようと考えている。結婚を認めない父と確執。そんな息子と孫に、ハルモニは、いままで家族にさえ語っていなかった過去の記憶を伝え、自分のルーツを見てこいと済州島へと送りだす。

ここには、韓国と日本、ミャンマーと日本という外なる国境も、在日コリアンとヤマトゥとの間や、難民に対する視線に如実に顕れる日本人と外国人との内なる国境もある。父は外国人は嫌いやと言い放ち、息子は「俺のソウル」などという安っぽいセンチメンタリズムでしかそれに反抗できない。その父は、済州島では、日本に逃げた奴らに自分たちの気持ちがわかるものかと罵られてしまう。島民が虐殺された海辺、舟に乗って大阪へと漕ぎ出した海辺に立って、父は声をあげて泣く。そして日本への帰路、息子に向かって、人間はどこでどのように生きていってもいいものだ、と結婚を認める。

さまざまな有り様で存在するボーダーを扱って、良いドラマに出来上がっていた。今回、林海象自身が、両親が戦後韓国から渡ってきたのだと告白している。その具体的な事情はわからないが、済州島から逃げ出す祖父母が舟の中で「この事件のことは誰にも言うな」と言い含めることには迫真性がある。実際に、軍事政権の続いた韓国ではもとより、鶴橋に多い済州島出身者の間でも、このことはタブーであったのだとするドキュメンタリー『悲劇の島チェジュ(済州)~「4・3事件」在日コリアンの記憶~』(2008年)があった。

ハルモニは孫の交際相手を見たいと、ミャンマー人女性の働く居酒屋に会いに行く。そして彼女を抱きよせ、可哀そうにと号泣する。故郷を喪失した者同士の交感、もっとも心を掴まれる場面だった。私自身が故郷も家族も喪失した人間だと思っているからでもあって・・・。

居酒屋の店長は、ミャンマー女性を紹介するとき、「ビルマから来た」と表現する。軍事政権の命名した現在の国名を使わないところに、林海象の思いが見えたような気がした。この女性は俳優ではなく、実際に役に似た境遇にあったようだ。今日(2010/11/7)はミャンマーの選挙。軍事政権の不正なく行われるとは思われないところ、今後どうなっていくのだろうか。

●参照
『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』(大阪市生野区)
鶴橋でホルモン
金石範『新編「在日」の思想』(金石範は済州島出身)
吉増剛造「盲いた黄金の庭」、「まず、木浦Cineをみながら、韓の国とCheju-doのこと」(李静和は済州島出身)
野村進『コリアン世界の旅』(済州島と差別)
宮里一夫『沖縄「韓国レポート」』(沖縄と済州島)
『けーし風』沖縄戦教育特集(金東柱による済州島のルポ)
豊住芳三郎+高木元輝 『もし海が壊れたら』(高木元輝こと李元輝が「Nostalgia for Che-ju Island」を吹く)


八代亜紀『一枚のLP盤』

2010-11-07 02:18:09 | ポップス

ど演歌はまったく好みでも何でもないのだが、八代亜紀は例外である。艶やかな笑顔、ハスキーな歌声、テレビに亜紀ちゃんが出てくるとつい見入ってしまう。もともとジャズ歌手を志向していたこともあり、最近では、アマチュアのジャズバンドや北村英治(クラリネット)との共演といった番組も作られている。

そんなわけで、「Cry Me A River」を唄ったシングルCD『一枚のLP盤(レコード)』(2010年、コロンビア)が今年の春に出たときには、矢も楯もたまらずamazonで注文した。ところが何かの間違いで到着したのはカセットテープ。さすが演歌、いまどきカセットかと妙な感慨を抱いた。・・・・・・とにかくそれは返品して、すぐに量販店でCDを見つけた。

亜紀ちゃんの声だから、タイトル曲の「一枚のLP盤(レコード)」も「昭和の歌など聴きながら」も何度もしみじみと聴いている。両方とも、作詞はテレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」や「つぐない」などと同じ、荒木とよひさである。

それにしても演歌ワールドである。バックの音楽がダサく、コード進行がパタン化している(まあ、ブルースだってそうかもしれないが)。呪われた過去と血縁と地縁が切っても切り離せない。涙を必死に堪えながら唄い、突如感情を吐露する。どこかに「こんな私、許してくださいね」という強迫観念的な甘えがある。それから、亜紀ちゃんならではだが、声をのばすときの「あ」音が微妙に「え」音にシフトし、何だか「場末」イメージを増幅させる。

それはそれとして、目当ては「Cry Me A River」である。バックはピアノトリオ+クラリネット、だらしなく音を垂れ流すベースが気に入らない、とは言え、本当に亜紀ちゃん+ジャズ、悪くない。共演者のクレジットがまるで書かれていないが、クラリネットは北村英治なのだろうか。


マッコイ・タイナーのサックス・カルテット

2010-11-01 01:02:33 | アヴァンギャルド・ジャズ

訳あって休日だというのに机に向かわざるを得ず、BGMとして「マッコイ・タイナーがピアノを弾いたサックス・カルテット」を選ぶ。となれば、普通はジョン・コルトレーンの黄金カルテットということになるのだろうが、コルトレーン嫌いの私には関係がない。

■ デイヴィッド・マレイ『Special Quartet』(DIW、1990年)

マレイ(テナーサックス)、マッコイ・タイナー(ピアノ)、フレッド・ホプキンス(ベース)、エルヴィン・ジョーンズ(ドラムス)というメンバーは文字通り特別である。発売当時はどうにもマレイ自身が格落ちのように感じられてしまったが、久しぶりに入手して聴いてみるととんでもない。マレイはいつもの手癖を聴かせながらも、悪乗りのフラジオによる高音はあまり使っておらず(それはそれで嫌いでないのだが)、中庸に抑えた感じで良い印象である。スタンダードも演奏しているが、何しろオリジナルの「Hope/Scope」の激しさと、マレイにぶつからず落ち着きどころを提供するマッコイのソロは素晴らしい。

このときマレイは35歳(!)。あれからもう20年。同時代のヘンなアイドル、マレイのブロウをまた目の当たりにしたい。

■ スティーヴ・グロスマン『In New York』(Dreyfus、1991年)

もともとグロスマンという人は音はでかくて立派、しかしソロはコルトレーンの真似だったりロリンズのパクリだったりして、勢いだけという印象がある(失礼)。ここではグロスマン(テナーサックス)に加え、マッコイ・タイナー(ピアノ)、エイヴリィ・シャープ(ベース)、アート・テイラー(ドラムス)という布陣でのライヴ、暴走するグロスマンにヴェテランが楔を打ち込むといった感覚だ。

これが悪くないのだ。「Speak Low」、「My Ship」、「Softly As In A Morning Sunrise」、「Impressions」、「Over The Rainbow」、「Good Bait」というスタンダードと、「Love For Sale」ならぬ「Love For Sal」というオリジナル曲の全てに耳を傾ける要素がある。相変わらずグロスマンのソロは勢いと迫力があり、そのままつんのめって土俵外に飛び出てしまいそうで、ちょっとげんなりする。しかし、テイラーの乾いたスティックさばきと、マッコイの勢いを勢いで包みこむようなソロのため、暴走が聴くべき暴走と化している。この盤があるので、グロスマンをすべて手放そうかという気持ちに歯止めがかかっている。

■ マッコイ・タイナー『Sahara』(Milestone、1972年)

はじめて聴いたときは余りの格好良さに感激した。もちろん今でもかけるたびに途中で止めることができない。

ソニー・フォーチュンの作品としても自身のリーダー作よりインパクトが大きく、冒頭曲「Ebony Queen」での、マッコイの極度に微分化したモード奏法をソプラノサックスで吹いて見せた様も、アルトサックスを自在に操っている「Rebirth」も素晴らしい。

1997年、新宿ピットインにエルヴィン・ジョーンズがマッコイやフォーチュンを連れて登場したとき、サインを頂いた。何しろ凄いジャズメンが楽屋前でうろうろしていて、興奮しながら話をしていて、さてマッコイはと思ってケイコ・ジョーンズ(エルヴィン夫人)にマッコイはどこですかと訊ねたところ、「あなたの後ろにいらっしゃいます」。振り向くと怪訝な顔で挙動不審なこちらを視ていた(笑)。

■ ジョー・ヘンダーソン『Inner Urge』(Blue Note、1964年)

ジョー・ヘンダーソン(テナーサックス)、マッコイ・タイナー(ピアノ)、ボブ・クランショウ(ベース)、エルヴィン・ジョーンズ(ドラムス)というこれ以上望めないメンバーによるワンホーンカルテット。これを聴くと、ジョーヘンは若いころから亡くなるまで本質的に変わらなかったのだなと思う。

昔から愛聴するスタンダード曲「Night And Day」は特に理想的なかたちでまとまっていて、何度聴いても嬉しい。以前に、アルトサックスを習っていた学校のセッションとして、新宿ピットインでこの曲を吹かせてもらったことがあって、そのときにソロの参考にしようと聴いたのだが、余りにも違いすぎて何の参考にもならなかった。

しかし、上の激しい3枚を聴いたあとでは、どうも物足りないような気がするのだ。やはりジョーヘンの世界はジョーヘンの世界だけで聴くべきである。

結論。マッコイ・タイナーのサックス・カルテットは、暴れ馬を御するものが良い。何年か前、チコ・フリーマン(テナーサックス)を加えたマッコイのサックス・カルテットをブルーノート東京で観て、チコファンの私はそれはそれは嬉しかったのだが、しかし、チコはもはや暴れ馬でも何でもない、残念ながら。