Sightsong

自縄自縛日記

2011年9月、ヴァーラーナシー、ガンガーと狭い路地

2011-09-17 22:10:20 | 南アジア

ヴァーラーナシー(ベナレス)は聖なるガンガー(ガンジス川)での沐浴で有名であり、三島由紀夫や遠藤周作もここを舞台にした小説を書いている。ちょっと話したサリー屋の男も、「大沢たかおが『深夜特急』の撮影で来たよ、長澤まさみも来たよ」なんてまくしたてていて、オリエンタリズム的なステレオタイプと化しているのは間違いないのだ。

とは言っても、そして実際に日本や韓国や欧米の観光客をちらちら見かけるとしても、そんなもので本質が揺るがないような圧倒的な存在の重さがヴァーラーナシーにあることも間違いない。ガンガーと路地と雑踏でそんなように思った。

空き時間にガンガーに足を運ぼうとしてホテルで訪ねると、沐浴なら早朝か夕方、特に朝焼けが良いよと教えてくれたが、そうも言っておられず、昼過ぎに向かった。

ガンガーでは大勢の人や犬や山羊が階段に腰掛けていて、呆然と川面を眺めている。ボートに乗って対岸を見物しようとする人たちもいた。


くつろぐ人びと


座り込む人びと


山羊


河に近付く女性たち


ボートに乗り込む人びと

横の路地はひたすら狭く、それにも関らず、バイクも牛も平気で通っている。

「町の中心部からガートへ向かう大通りの左手、幅二メートル程の小路を入ると、サーリー、下着、食器、玩具、線香と、およそ生活と信仰とに関わるありとあらゆるものを売る小さな店が、両側に所狭しと並んでいる。」
(荒松雄『インドとまじわる』)

この文章が書かれたのは1981年、30年前のことであるが、これは変わっていない世界だと確信できる。ひとつの小さな店で、気まぐれにハヌマーンの小さな彫像を値切って手に入れた。きんまの葉に石灰水と檳椰の実を巻き込んだものを噛むと口の中が真っ赤になる。いつか試したいと思っているが、仕事で来ていてそれは無理。


野菜売り


行きかう人びと


ポンプ


きんまの葉


狭い路地の牛

※すべてペンタックスLX、AM TOPCOR 55mmF1.7、FUJI PRO 400で撮影

●参照
荒松雄『インドとまじわる』
2011年9月、ベンガル湾とプリーのガネーシャ
2011年9月、コナーラクのスーリヤ寺院
2011年9月、ブバネーシュワル
2010年10月、デカン高原
2010年10月、バンガロール
ジャマー・マスジッドの子ども
2010年10月、デリー
2010年9月、ムンバイ、デリー
2010年9月、アフマダーバード
PENTAX FA 50mm/f1.4でジャムシェドプール、デリー、バンコク


ダニー・ボイル『スラムドッグ$ミリオネア』

2011-09-17 20:45:49 | 南アジア

ダニー・ボイル『スラムドッグ$ミリオネア』(2008年)を観る。ヒットしたのに観逃していて、去年インドで何かの飛行機に乗った時に隣の席の見知らぬインド人となぜかインド映画の話になり、これを熱烈に薦められたのだった。但し、監督のダニー・ボイルは英国人である。

主な舞台となっているムンバイが映画のような顔役に牛耳られているのかどうか知らないが、登場する場面はいちいち興味深い。

例えば、兄のサリームはレストランで働き、ミネラルウォーターを注文されると空容器に水道水を詰め、キャップを未開封のように細工する。ホテルやレストランで出てくるミネラルウォーターのキャップがよく空いていることは実際にあって、キャップだけには注意しようと思っているのだが、こんな工夫をされては叶わない。ちょっとのけぞってしまった。

ムンバイの空撮シーンではスラムのブルーシートが目立つ。これも、ムンバイの空港に着陸する直前に目にする光景だ。

冒頭には、ジャマールとサリームの母が「ムスリムを殺せ!」と叫ぶ群衆によって殺される場面がある。現在のヒンドゥー・ナショナリズムと地続きのようなこの描写を、インドの映画好きたちはどのように捉えただろう。

●参照
2010年9月、ムンバイ、デリー


中国プロパガンダ映画(6) 謝晋『高山下的花環』

2011-09-17 17:05:17 | 中国・台湾

以前に中国のどこかで買ったDVD、謝晋『高山下的花環』(1984年)を観る。日本では『戦場に捧げる花』というタイトルで公開されたようだ。

映画は中越戦争(1979年)を舞台にしている。中国がベトナムに侵攻したのは広西省・雲南省の国境であり、タイトルロールには、人民解放軍の成都部隊(四川省)と昆明部隊(雲南省)が協力したと書いてある。ロケがどこで行われたのかはわからないが、劇中で兵士が地図を指し示す様子からみて、雲南省が想定されていると見てよさそうである。

権力者の母は、息子を栄転させる目的で、人民解放軍の教官として入れてもらう。3ヶ月程度何もせず在籍して辞めるつもりである。兵士の間に高まる反感。そしてベトナム国境への派兵命令が出て、ひ弱な男も勇気を出して最前線に赴く。次々と死んでいく仲間たち。戦争が終わり、遺族が集まってくる。それぞれ死を悲しみ、同時に、国家に尽くした名誉を授けられる。そんな物語である。

戦争直前、中国はベトナムのカンボジア侵攻(ポル・ポト政権打倒)とソ連との接近に警戒していた。1979年に米カーター大統領と会った鄧小平は、秘かに、中越戦争を起こすつもりであることを打ち明けたという。中国側はこの戦争を「自衛反撃戦」と称し、ベトナム側はもちろん「侵略戦争」とみなしている。(『中国20世紀史』東京大学出版会)

しかし、この映画では、ベトナム軍が先制攻撃を行い、中国側の小学校をも破壊したのだとアピールしてみせる。そして戦後、死を悼むものの、靖国の論理と同様に、戦争そのものとその背景となったパワー・ポリティックスに批判の目が向けられることはない。従って、この映画はプロパガンダ映画である。

文化大革命の罪を描いたすぐれた映画『芙蓉鎮』(1987年)を撮った謝晋(シェ・チン)であるから、ドラマは非常によくできている。登場人物のキャラクターも典型的な鋳型によって作られたものではない。何も考えなければ、好戦的な映画として捉えられることはないかもしれない。しかし、だからこそのプロパガンダ映画なのである。これが謝晋の意図したものであったかどうか知りたいところだ。

ところで、主役のひ弱な男がカメラを使っている。なかなか解像度の関係ではっきりしないのだが、おそらくは、アサヒペンタックスES(ブラックペイント)であり、1971年の発売であるから時代考証上おかしいことはない(昔はカメラは長く使うものだったから)。しかし、ひとつ不可解な点がある。ESはセルフタイマーがあるべきところに丸い電池ボックスを置いているのだが、それにも関らず、自分の姿を撮るときに、まるでセルフタイマーを操作するような仕草をするのである。

●参照 中国プロパガンダ映画
『白毛女』
『三八線上』
『大閲兵』
『突破烏江』
『三峡情思』


2011年9月、ベンガル湾とプリーのガネーシャ

2011-09-17 12:09:54 | 南アジア

コナーラクプリーはすぐ近くだ。途中ベンガル湾が見える場所にさしかかって歓声を上げる。海は真茶色で波が荒い。

それにしても、紅海、アラビア海、タイ湾、渤海、インド洋など、はじめての海に邂逅するたびに、われながら演技のように歓んでいた。海とはそうしたものか、河ではそうはならない。


ベンガル湾


ベンガル湾

プリーはヒンドゥー教の四大聖地のひとつであるらしく、地元のジャガンナート神を祀ったジャガンナート寺院(12-15世紀)がある。ヒンドゥー教徒でなければ足を踏み入れることができないのだが、はじめてここに来たという仕事相手のインド人がどうしても祈りを捧げたいようで、付き合って彼の戻りを待つことにした。

例えば日本の出雲やスリランカのカタラガマがそうであるように、地域の神は大きな神のストーリーに取り込まれていく。ジャガンナート神もそのような存在であるという。目が真ん丸のコミカルな顔をした神様である。

「「ジャガンナート」とは「ジャガド(世界)のナート(主)」の意味であり、サンスクリットの音便により「ジャガンナート」と呼ばれる。この命名はサンスクリット文化の伝統に従うものであることが明らかであり、この寺院がヒンドゥー教の「大いなる伝統」のなかに取り込まれてからは、ヴィシュヌをさす。しかし、このジャガンナート神は、元来はヒンドゥー教徒と関係ない伝統の神であったと思われる。」
(立川武蔵・大村次郷『ヒンドゥーの聖地』)


怖い人力車、手もぶれる


ジャガンナート寺院


ジャガンナート神(右側)、オリッサ州立博物館にて (コンデジで撮影)

寺院周辺は出店で賑わっている。生活物資も、果物や野菜も、サリーも、土産物もある。きょろきょろして歩いていると、巨大な牛の糞を蹴飛ばしてしまい、皮靴がクソマミレになった。ホテルで綺麗に洗うまでブルーな気分だった。

ちょうど8月末からムンバイを中心にガネーシャ祭をやっていた影響なのか、いつも通りなのか、参道は大きなガネーシャだらけだ。


ガネーシャ


ガネーシャ


ガネーシャ


ガネーシャ

※すべてペンタックスLX、AM TOPCOR 55mmF1.7、FUJI PRO 400で撮影(ジャガンナート神を除く)

●参照
荒松雄『インドとまじわる』
2011年9月、コナーラクのスーリヤ寺院
2011年9月、ブバネーシュワル
2010年10月、デカン高原
2010年10月、バンガロール
ジャマー・マスジッドの子ども
2010年10月、デリー
2010年9月、ムンバイ、デリー
2010年9月、アフマダーバード
PENTAX FA 50mm/f1.4でジャムシェドプール、デリー、バンコク

●参照(ガネーシャ)
ガネーシャ(1)
ガネーシャ(2) ククリット邸にて
アショーカ・K・バンカー『Gods of War』


2011年9月、コナーラクのスーリヤ寺院

2011-09-17 08:50:00 | 南アジア

オリッサ州ブバネーシュワルからベンガル湾に向かって田舎道を2時間程度走ると、コナーラクという小さな街に、13世紀に建造されたスーリヤ寺院(太陽寺院)がある。世界遺産として登録されている。

オリッサの寺院建築はほとんどの場合、切り出した石材を積み上げてつくる石積寺院であるといい、これがひとつの典型である(立川武蔵・大村次郷『ヒンドゥーの聖地』)。オリッサ州はボーキサイトや鉄鉱石などの産出が多く、使われているのもそのような石である。現在の産業と遠い過去の遺跡とにはリンクがあるわけだ。

祀られているスーリヤ神はすでに『リグ・ヴェーダ』(紀元前1200-900年の編纂)に登場する太陽神であり、ここにも一体の姿を見ることができる。しかし、本尊は英国が収奪し、現在は大英博物館にある。また、もう一体はデリーの博物館に収められている。

現在残されている主な部分は、神に捧げる踊りがなされた舞堂と、その先の前殿である。さらにその先の本殿高塔は現存しない。ブバネーシュワルのリンガラージャ寺院と同様の形状であったというが、そもそも作られていなかったという説もある。


前殿、エロチックな彫刻


舞堂から前殿をのぞむ


舞堂前の獅子と象


P・ブラウンによる復元想像図(荒松雄『インドとまじわる』)

舞堂には多くの女神が彫刻されている。太鼓を持ったものもあり愉しい。


舞堂の女神


舞堂の女神


舞堂の女神

前殿の基部の壁面には、12の車輪(チャクラ)が浮き彫りにされている。巨大な堂宇が疾駆するイメージである。この12という数字には意味がある。

「クリシュナの子シャンバは、父からその悪行を戒められて醜い容貌の身に変えられ、十二年間の悔悟の苦行と太陽神への祈りとを強いられる。シャンバは、その難行と信仰とによって救われ、スールヤ神への感謝の念をこめて巨大な堂宇をその神のために造営したという。事実は、(略)実在の王が建設したものであるが、彼は、十二年間の地税を費し、千二百人の工人を使い、十二年をかけてこの寺院を建てたという。」
(荒松雄『インドとまじわる』)


前殿の車輪


前殿の車輪

よく見ると、車輪の中にはエロチックな彫刻がある。それどころではない。前殿の横全体が、『カーマ・スートラ』のエロエロ世界となっているのだ。この凄さはブバネシュワールの寺院の彫刻を遥かに凌駕する(その意味で)。見れば見るほど驚く。●P、6●、動●など、何でもあり、なのだ。当たり前だが、昔から人間は変わらないのだ。


前殿のエロチックな彫刻


前殿のエロチックな彫刻


本殿高塔の基部、スーリヤ神


親子?


バニヤン・ツリー


バニヤン・ツリー


寺の牛


土産物通りの男


土産物通りの男


何だか寂しいごみ箱


近くのガネーシャと少年

※すべてペンタックスLX、AM TOPCOR 55mmF1.7、FUJI PRO 400で撮影

●参照
荒松雄『インドとまじわる』
2011年9月、ブバネーシュワル
2010年10月、デカン高原
2010年10月、バンガロール
ジャマー・マスジッドの子ども
2010年10月、デリー
2010年9月、ムンバイ、デリー
2010年9月、アフマダーバード
PENTAX FA 50mm/f1.4でジャムシェドプール、デリー、バンコク


2011年9月、ブバネーシュワル

2011-09-17 01:06:42 | 南アジア

ブバネーシュワルはインド・オリッサ州の州都だが、田舎街である。ここには10-11世紀の寺院が数多く残されており、これをオリッサ様式というらしい。最も有名だというリンガラージャ寺院(11世紀)はヒンドゥー教徒でなければ足を踏み入れることが許されないが、隣りに見物台がある。いそいそとのぼってその姿を目にしたとき、感嘆の声をあげてしまった。最も高い塔はスタイリッシュであり、確かに様式として洗練されたものに見える。

リンガラージャ寺院を除けば、私たち異教徒であっても覗くことができる。勿論、重要な場所に入るときには裸足にならなければならない。


リンガラージャ寺院の塔


リンガラージャ寺院


リンガラージャ寺院

「・・・幸いにして、ブバネーシュワルは、その周辺に大小数百の寺を持っている。小径を廻り、化物のようなジャクフルートの実がぶらさがる樹木の蔭に、半ば崩れた囲壁の中に残された大小の寺や塔を一つ一つ訪ねるのは、信仰の外にある者にも許された歓びである。中でも、ムクテーシュワル寺院(ほぼ十世紀初頭)や、ラージャラーニー寺院(ほぼ十一世紀初頭)はすぐれた遺跡で、塔の中、下面や入口の上に残る彫像や文様で私たちの目を楽しませてくれる。」
(荒松雄『インドとまじわる』)

ヴァイタール寺院(8世紀)。長方形であり、水の中に建っていた。死の女神チャームンダーに捧げられているという。


ヴァイタール寺院


ヴァイタール寺院に座る男

パラシュラメシュワール寺院(7世紀)。本殿の中にも外にもリンガ・ヨーニがあった。男性原理と女性原理の結合の象徴である。

「リンガがヨーニを貫いているのをわれわれは見ている。ということは、われわれは女性の胎内にいるということを意味する。」
「・・・つまり、このシンボルは、それを見た人びとに対して「この世界はすでに女神の胎内に包まれてある」と告げているのである。」
(立川武蔵・大村次郷『ヒンドゥーの聖地』)


パラシュラメシュワール寺院


パラシュラメシュワール寺院のリンガ・ヨーニ

ムクテーシュワル寺院(10世紀)。破壊神シヴァに捧げられている。アーチ型の門(トーラナ)が特徴的である。真っ暗な本殿の中には迫力のあるリンガ・ヨーニが設置されており、周囲は花で飾られ、その中心ではシヴァの蛇が鎌首をもたげている。


ムクテーシュワル寺院のトーラナ


ムクテーシュワル寺院


ムクテーシュワル寺院のリンガ・ヨーニ


ムクテーシュワル寺院の外に祀られていたガネーシャ

ラージャラーニー寺院(11世紀)。ここだけは入場料を取っている。塔の作りは他とは一線を画しており、寺によって寺が構成されているのである。どうやって建造したのか、これには驚愕させられる。そして周囲をびっしりと埋め尽くした官能的な女神や獣の彫刻は素晴らしい。


ラージャラーニー寺院


ラージャラーニー寺院の女神


ラージャラーニー寺院の子ども


ラージャラーニー寺院の女神


ラージャラーニー寺院の女神


ラージャラーニー寺院の男


ラージャラーニー寺院の子ども

※すべてペンタックスLX、AM TOPCOR 55mmF1.7、FUJI PRO 400で撮影

●参照
荒松雄『インドとまじわる』
2010年10月、デカン高原
2010年10月、バンガロール
ジャマー・マスジッドの子ども
2010年10月、デリー
2010年9月、ムンバイ、デリー
2010年9月、アフマダーバード
PENTAX FA 50mm/f1.4でジャムシェドプール、デリー、バンコク


ロベルト・ロッセリーニ『アモーレ』

2011-09-15 01:24:43 | ヨーロッパ

ロベルト・ロッセリーニ『アモーレ』(1948年)を観る。ブックオフで250円だった。

学生時代以来、20年ぶりくらいである。その頃は巨匠の作品や名画と呼ばれる作品でも、なかなかレンタルビデオでも見つけることができず、まめに「ぴあ」をチェックしたり、わざわざ音羽にあった文芸坐直営のレンタルビデオ店まで原付で借りに行ったりと苦労した。それが今では、マルクス兄弟であろうと、ジャン・ルノワールの米国時代のマイナー作品であろうと、廉価なDVDが出回っている。悲しいような嬉しいような複雑な気分だ。

この映画は、不世出の女優、アンナ・マニャーニの顔のための映画である。それはもう、視線を逸らしたくなるほど直接的で、恥などを超えたあからさまな顔世界なのである。

2話構成の第1話「人間の声」は、電話で別れ話をするマニャーニの独り舞台だ。30分もの間、マニャーニの顔は悲しみと怒りと絶望とで醜く歪み、それゆえの美しさを見せる。圧倒的な独演である。第2話「奇跡」では、若き日のフェデリコ・フェリーニや村人たちが登場するものの、マニャーニ独演の構図は変わらない。怖ろしい女優だったのだな。それにしても、岩山にへばりつく石の家々や階段はどこで撮られたものだろう。イタリア南部か、地中海の島か。

ロッセリーニについて言えば、『無防備都市』(1945年)、『戦火のかなた』(1946年)、『ドイツ零年』(1947年)に続いて撮られた作品であり、マニャーニとの私的な関係の集大成であったのかも知れない。翌年の『ストロンボリ、神の土地』(1949年)では、イングリッド・バーグマンを主役に起用している。有名なスキャンダルの時期である。これにより、ロッセリーニとマニャーニとの関係は破れる。

●参照
ロベルト・ロッセリーニ『インディア』、『谷村新司 ココロの巡礼』


デリーの爆弾テロ、3人のサニア

2011-09-14 17:04:52 | 南アジア

2011年9月7日の午前10時11分に、デリーの高等裁判所前で爆弾テロがあった。その日の夜にブバネーシュワルからデリー入りする予定だったため、電話での確認に追われ、さらに空港に着いてみると待てど暮らせど乗るはずの飛行機が来ない。待合室ではテロの特集番組一色、「厳しい反テロ法が必要だと思いますか」との質問に対するfacebookやtwitterでの反応が募集され、随時紹介されていた。このあたりは日本より上である。

結局、デリーのホテルにチェックインできたのは午前2時半頃だった。


ブバネーシュワル空港の待合室にて

ネットで見た限りでは、日本での報道は最初の1回だけのようで、もちろんこの件に限らないのだが温度差が大きい(なでしこジャパンよりも大事件だと思うが)。9月10日の「Hindustan Times」紙では、爆発後に送られてきたメールを紹介している。その中には、次のターゲットは、デリーのショッピングモールやアーメダバードだというものもある。愉快犯かもしれないのだが、この報道だって重要である。


9月10日の「Hindustan Times」紙より

事件翌日のデリーで自動車での移動中、インドの仕事相手と雑談。

「いやそんなわけで、余り寝ていないから眠いよ」
「そうか。でもいちいち騒がないのが一番のテロ対策だと思うよ」
「ところで、ソニア・ガンディーが外国の病院から退院したんだっけ」
「あまり公表されていないんだけどね」
ラジーヴ・ガンディーの何だっけ」
「妻だよ。ラジーヴの母のインディラ・ガンディーはシーク教を弾圧した反動で殺され、ラジーヴはスリランカのLTTEに殺された」
「ソニアの評判はどうなの」
「ラジーヴと結婚するときに恋愛騒動を起こしたし、ビジネスもやってるし、あまり芳しくないね。アンナ・ハザレを見習えっての」
「誰だっけ」
「活動家だよ。こないだ政府に抵抗してハンガー・ストライキをやってた」
「ああ、新聞で読んだ。アンナなのに男なのか」
「俺の妹もアンナだけど(笑)」
「ソニアと言えば、関係ないけど、サニア・ミルザ(※パキスタンのクリケット選手と結婚して国内でバッシングを受けた)の調子はどうなの。6年前にハイデラバード・オープンで初優勝したときは、ちょうどデリーで夕食を食べてたんだけど」
「ソニアはイタリア人で、サニアはインド人だよ。まあ、もうそれほど若いわけじゃないからね」
「でも20代でしょ」
「いや30代・・・ごめん、自信がない(笑)」(※あとで調べたら24歳だった)
「でも可愛いよね。鼻ピアスしてる」
「サニアと言えば、もうひとりインドには可愛いサニアがいるぞ」
「妹か」
「俺の妹はアンナだよ。いや、サニア・ネワルっていうバドミントン選手」(※あとで調べたらSainaとSaniaの2つのスペルがあり、どういうことなのかわからない)
「ワールドクラスなのか」
「去年のコモンウェルスゲームズ(※英連邦に属する国による4年に1回の大会)で優勝した」
「ふーん。ところで話が変わるけど、ターバンは誰がしているの」
「ターバイン(Turbine)?」(※発音はこのあたりではタービンではない)
「ターバン、ターバン。マンモハン・シンがしてるだろ」
「宗教によらないよ。何だろうね、伝統を重んじる人とかアピールする人とか」
「ふーん」


荒松雄『インドとまじわる』

2011-09-14 14:37:16 | 南アジア

去年の10月以来、およそ1年ぶりのインド。ムンバイ行きの機内で、荒松雄『インドとまじわる』(中公文庫、原著1982年)を読む。

著者の故・荒松雄は、1952年からインドに留学している。海外に渡航する人が極めて少ない時代にあって、「インドに泳いででも行きたい」との思いが叶ってのことだったという。それだけに、多くのインドエッセイなどとは一線を画した名著であり、著者のわくわくする気持ちが読者にも伝わってくる。

本書に収められたエッセイは1950年代から80年代まで書かれており、その内容は多岐に渡る。中でも、ヴァーラーナシー(ベナレス)についての「聖地ベナーレス」、デカン高原北部の遺跡カジュラーホ、ベンガル湾に面した街ブバネーシュワルの寺院群やその近くの遺跡コナーラクについてまとめた「カジュラーホからコナーラクへ」、ムガル帝国の苛烈な女性たちについての3本のエッセイはとても面白い。

特にムガル帝国の女性活劇である。ムガル帝国の歴史については馴染が薄かったこともあり、第2代皇帝フマーユーンの墓であるフマーユーン廟(デリー)、第5代皇帝シャー・ジャハーンの建造した要塞ラール・キラー(デリー)とモスクのジャマー・マスジッド(デリー)、シャー・ジャハーンが妻ムムターズ・マハルのために作らせた墓タージ・マハル(アーグラー)といった遺産を訪れる前に読んでおくとさらに愉快に違いない。


本書より、ムガル皇帝第1代-6代系図

●参照
ジャマー・マスジッドの子ども
PENTAX FA 50mm/f1.4でジャムシェドプール、デリー、バンコク


ラヴィ・シャンカールの映像『Raga』

2011-09-03 01:33:21 | 南アジア

ラヴィ・シャンカールを捉えたドキュメンタリー・フィルム、ハワード・ワース『Raga』(1971年)を観る。このときシャンカールは50歳前後である。

シャンカールは全てを捨てて音楽に自らを捧げた修行時代を振り返りながら、師の音楽家、ババ・ウスタッド・アラウディン・カーンを訪ねる。会うや否や、地面に額をこすりつけて師への敬意を表すシャンカール。ちょうどババ晩年の時期であり、1972年に亡くなった直後、シャンカールはアリ・アクバル・カーンとの共演盤『In Concert 1972』(Apple Records、1972年)において、コンサート前に「この夕べを先ごろ亡くなったウスタッド・アラウディン・カーンに捧げる・・・」と挨拶している。それほど大きな存在であったということだ。


愛聴盤!

ドキュは、師との邂逅、弟子に厳しくシタールを教える姿(その中にはジョージ・ハリスンもいる)、ユーディ・メニューインとの共演、ピクニックでの愉しそうな様子などを次々に映しだす。生れ故郷のヴァーラーナシー(ベナレス)で、ガンガーのほとりを歩きながら、ラーガとはSpiritual Hopeのための音楽だ、私は音楽という共通言語しか知らぬ、私は旧い人間だ、と呟く、動かされる場面がある。そして、タブラとの激しい共演で幕を閉じる。

ユーモアもある。弟子たちにババのかつての姿を語っている。日がな練習し、1日に2-3時間しか寝ない。そのために髪を天井から垂らした紐に結え、うとうとしたら引っ張られる工夫さえしていたという。「彼は2回結婚したんだよ!・・・・・・うーん、私はどこにいるのか」と、弟子たちを笑わせたりもするのである。

それにしても、フィルム映像には網膜を活性化させる力がある。一度沈んだ上で貼りついたようで、こてこてに鮮やかで、シャープでありながら粒子感が残っている。これをデジタルで実現するのは再現に過ぎないだろう。良いフィルムだ。

シャンカールのシタールの素晴らしさについては、今更言うまでもない。私はただ一度だけシャンカールの演奏を観たことがある。1998年2月、銀座の王子ホールにおいて娘のアニューシュカ・シャンカールと共演したときだった。当時16歳だったアニューシュカには悪いが、たとえばジャズギターで言うなら、素人とパット・マルティーノくらいの違いがあった。これでもかと繰り出してくるカラフルで想像力を掻き立てる即興には、文字通り感激してしまった記憶がある。(そのあまりに、楽屋前で長い時間「出待ち」をしていたが、結局出てこなかった。)

もう91歳、何とかまた来日してくれないだろうか。


1998年来日時のパンフレット

●参照
スリランカの映像(6) コンラッド・ルークス『チャパクァ』(シャンカールがサントラを担当)


朴三石『教育を受ける権利と朝鮮学校』

2011-09-02 01:09:02 | 韓国・朝鮮

朴三石『教育を受ける権利と朝鮮学校 高校無償化問題から見えてきたこと』(日本評論社、2011年)を読む。著者は、『海外コリアン』(中公新書、2002年)を書いた人でもある。

菅政権は、その本当の最後において、高校無償化法の朝鮮学校への適用プロセスを再開した。遅きに失した感があるが、ここは、何とか首相退任前に正常化の道筋を作っておこうとした判断を評価すべきだろう。もとより政治とは無関係であるべき理念のもと制定された法律であったが、北朝鮮憎しのスケープゴートにされてしまっていたのである。日本の植民地支配から連なる歴史的経緯と、拉致被害と、子どもたちのアイデンティティに沿った教育とは、本来、別々に考えなければならない。

歴史のなかに朝鮮人学校を位置付け、その差別的待遇や高校無償化問題についてまとめた類書が見当たらないだけに、本書の存在価値は大きい。歴史にも背景にも視線を向けることなく暴言を吐いてエクスタシーを得る者たちは、恥について知り、これ以上恥の上塗りをしないようにしなければならぬ。

ここに書かれていること。

日本国憲法の対象には在日コリアンも含まれている、と解釈されることが通説。その下で、在日コリアンの教育を受ける権利が保障されている。
○さまざまな国際人権法により、在日コリアンは民族教育を受ける権利を保障されている。それを行おうとしない日本政府に対し、国連等は何度も勧告してきた。
○在日コリアンの納税額に対し、リターンが限定的である。朝鮮学校もそのひとつ。
○税制、大学受験、資格受験、スポーツ大会への参加、学校近辺の安全設備の整備など、さまざまな局面で、日本政府は朝鮮学校に差別的な対策を取ってきている。
○根本的には、朝鮮学校を現在の「各種学校」扱いではなく、日本の学校同等の「学校教育法一条」に準じた扱いとすべき。

さて、高校無償化プロセスはすんなりと正常化するだろうか。

●参照
枝川でのシンポジウム「高校無償化からの排除、助成金停止 教育における民族差別を許さない」
荒井英郎+京極高英『朝鮮の子』
朴三石『海外コリアン』、カザフのコリアンに関するドキュメンタリー ラウレンティー・ソン『フルンゼ実験農場』『コレサラム』


今井一『「原発」国民投票』

2011-09-01 00:50:03 | 環境・自然

今井一『「原発」国民投票』(集英社新書、2011年)を読む。

日本では国民投票は一度も実施されておらず、唯一、安部政権時に憲法改正のための国民投票のルールのみが法制化されている(2007年)。勿論、9条の無力化と再軍備が目的のあやうい法律である。一方、諸外国では、「年金」「禁酒」「同性結婚」「臓器移植」「死刑制度」など、重要なテーマについての国民投票が何度も行われている。著者は、日本の状況をこそ異常であると見る。

直接投票については、ムードに流されやすい「衆愚」の意見を汲み上げるものと見る向きが多い。しかし、著者による間接民主制の限界に関する指摘は的を射ているものだ。例えば、自治体条例の制定とセットで住民投票を行った地域では、沖縄県名護市(米軍基地)徳島市(吉野川可動堰)三重県海山町(原発)を見ても、住民投票とその直前直後の首長・議員選挙とは正反対の結果となっている。さまざまな理由がある。しかし、このような有権者の意思を無にする政治のあり方は明らかに非・民主主義的であると言えよう。「衆愚」の選ぶ政策がダメで、「衆愚」の選ぶ議員はダメではないという理屈はない。

そして著者の提案するのは、「原発」の是非に関して、国民投票を行うべき時期に来ているということだ。偏狭な利得関係に縛られている議員にとっても、有権者と乖離しないという意味で、これはむしろ望ましいのではないか。そもそも、小沢一郎たちの進めた小選挙区制・二大政党化によって、多様な意見を圧殺する政治システムとなっているのである。

本書の後半では、有識者やタレントや学者が3・11前後に語った主張が集められている。読んでいると本当に腹立たしいものが多い。決して当事者にはならない立場からエラソーなことを語る言説が目につくのである。その一方、以下に引用する高橋哲哉の主張は共感できるものだ。

「少なくとも言えるのは、原発が犠牲のシステムである、ということである。(略)
 犠牲のシステムでは、或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての「尊い犠牲」として美化され、正当化されている。そして、隠蔽や正当化が困難になり、犠牲の不当性が告発されても、犠牲にする者(たち)は自らの責任を否認し、責任から逃亡する。この国の犠牲のシステムは、「無責任の体系」(丸山眞男)を含んで存立するのだ。」

●参照
巻町、名護市、岩国市、徳島市における住民投票
高橋哲哉『戦後責任論』