Sightsong

自縄自縛日記

『Megaquake III 巨大地震』

2013-04-14 22:02:00 | 環境・自然

NHKで放送された『Megaquake III 巨大地震』を観る(2013/4/7, 14)。2回に分かれており、第1回が「次の直下地震はどこか~知られざる活断層の真実~」(>> リンク)、第2回が「揺れが止まらない~"長時間地震動"の衝撃~」(>> リンク)。


番組のポストカード

第1回の活断層については、多くの最近の研究成果が示されている。

東日本大震災(2011年)によってプレート境界のひずみは解消されたが、その際に、東日本が乗る北アメリカプレートは慣性でよけいに東に動き(最大6m)、引っ張られ、新たに多くの活断層が出来た。
・また、その慣性による引っ張りに伴い、マントルが下から地殻を突き上げ、震源地から400km程度の同心円状に大規模な隆起が起きた。
・したがって、今後何十年にもわたり、活断層のずれによる直下型地震が頻発するだろう。
・活断層は数多く存在し、地表から判明したものしかわかっていない。堆積層などが把握を邪魔するわけである。(地表にあるものを活断層、地下にあって地震を引き起こすものを震源断層と呼んで区別している)。
・活断層は綺麗な形ではなく、何本にも枝分かれしている。したがって、地上施設が1本の活断層の真上にあるかどうかを云々することは、あまり意味がある話ではない。
・大阪の上町断層は、物理探査(人工的な地震波を用いる)により、従来考えられていたよりも広範囲に広がっていることが判明した。
・東京の立川断層は、堆積層が厚すぎて(最大5km程度)、どこにあるのか未だはっきりしない。(貝塚爽平『東京の自然史』にも、東京湾の造盆地運動について解説されていた。地盤が下へ動き、その分、上に堆積層が積もっていくわけである。>> リンク

さらには、日本のみならず、中国四川省、台湾、ニュージーランド・クライストチャーチでの地震についても、内陸型だとして説明される。クライストチャーチは、地震が起きるまで、その近くに活断層があるとは知られていなかった。現地の研究者も、まだまだ知られていない活断層があるはずだと発言している。昨日の淡路地震も、阪神淡路大震災(1995年)を引き起こした野島断層そのものではないとされている。

要するに、直下型地震の原因となる活断層の特定は、すべて後追いなのである。これは、研究によって地道にすべてを調べていくことで対処できる類のものではない(いつどこで起きるかわからないため)。大地震が起きた時に被害を最小化するような都市造り、インフラ整備のほうが重要であることは、誰の目にも明らかだろう。

そうしてみれば、原子力発電所をどのように判断するかについても、また明らかである。少なくとも、「国家百年の計」や「国家強靭化計画」を標榜するならば。

第2回は、「3.11」で起きた長時間地震動について、そのメカニズムを説いている。 

確かに、東京丸の内のオフィスにいたわたしにとっても、体験したことがない長い揺れだった。最後は、微妙にゆさゆさと揺れ、乗り物酔いのような気持ちの悪さを味わった。 

実は、巨大な震源域の中で、時間差を置いて次々に大地震が発生したため、それらの地震波が少々の時間差をもって重なり、長くて大きい揺れとなったのだった。その結果、建物にとっても、一度ダメージを受け、その後さらに異なる向きの揺れが襲いかかってきたため、これまでの耐震設計では耐えきれない結果となった。これは建物だけでなく、地盤においても同様だった。

東京や大阪など、分厚い堆積層の上に開発された場所では、揺れはさらに大きなものになったのだという。これは恐怖だ。しかも、大都市には地下街もある。高速道路が横倒れになった阪神淡路大震災の後、東京でも、高速道路や公共の建物での耐震補強が進められていた。あれがなかったなら、と考えると、ぞっとする。 


東京駅地下、「3.11」の夜

●参
『The Next Megaquake 巨大地震』
ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』
島村英紀『「地震予知」はウソだらけ』
東日本大震災の当日


ポール・オースター+J・M・クッツェー『Here and Now: Letters (2008-2011)』

2013-04-14 11:22:38 | 北米

ポール・オースター+J・M・クッツェー『Here and Now: Letters (2008-2011)』(2013年)を、Kobo Touchで読む。米国の人気作家オースターと、南アフリカ出身のノーベル賞作家クッツェーの書簡集である。


表紙の万年筆が、なぜかサイドフィラー式

最初に告白してしまうと、読んでいてあまり愉しくはなかった。あくまで書簡であり、物語世界を構築しているでもなし、かといって礼儀にくるんでの文章ゆえ素朴なエッセイでもなし。つい気懸りなことを考えていて、目だけが字面を追っていくこともあったりして。このようなものは、よほどのファンでなければ読むべきではないね。

とは言え、面白い要素はそこかしこに現れる。オースターの小説世界は、それが人との関わりであろうと、心の内奥であろうと、煉瓦の表面であろうと、具体的に解釈して積み上げていき、結果として奇妙奇天烈な形になっているのだということが実感できる。たとえば、オースターは、どんな小説の登場人物であろうと、部屋のソファーなど自分が知っている場所にその人物を配置し、言動を想像・創造するのだという。これに対して、クッツェーの創作においては、より抽象的な時空間を想い描いている。

オースター得意の野球ネタ。MLBのガララーガ投手(当時、タイガース)は、インディアンス戦で、あと一人のところで、一塁塁審の明らかな誤診により、完全試合を逃している。オースターは、そのあとのガララーガの爽やかな「Of course. Such is life, and what else can you expect?」というコメントとともに、塁審がジェイムス・ジョイスという名前(!)だったことを記憶に残るものとして紹介している。もちろん、数十万試合が行われたなかでの偶然の不可思議を、オースターは、自分の世界を積み上げる要素としているわけだ。この野球の記録への耽溺が、どうしようもなく悪い方向に暴走したのが、『Sunset Park』でもあった。(ところで、先日、ダルビッシュ有が完全試合を逃したことに、オースターは注目しただろうか?)

その他、備忘録として。

○友情と愛情について
・男性が女性と寝るのは、彼女と話をしたいからである。寝なければ女性と友達にはなれない。【クッツェー】(そうかな???)
・つまりそれは、もし男性だったら友達にはならないような女性を妻にしてはならない、ということだ。【オースター】
・友情とは礼儀であり、親切であり、安定である。お互いに怒鳴りあうような者が友達であり続けることは難しいが、毎日怒鳴りあう夫婦が幸せなこともある。【オースター】(そうかな???)
○オースターはどこかに行くたびにチャールトン・ヘストンに遭遇した。(だからどうした?)
○映画『ルル・オン・ザ・ブリッジ』の主演女優は、当初はミラ・ソルヴィーノではなく、ジュリエット・ビノシュを計画していた。(ビノシュであれば、チャーミングな作品ではなく、より奇妙な味が出ていたかもしれない?)
○クッツェーはジャック・デリダを愛読している模様。
○ふたりとも、自作へのレビューを異様なほど気にしており、酷評されると殺意すら抱いている。なんでもノーマン・メイラーは、80歳のとき、悪評を書いた批評家の腹を殴ったそうで。
○イスラエルとかつての南アフリカ(アパルトヘイト)の排外主義の比較。ユダヤ系のオースターが、南アフリカは国内の問題にとどまるのに対し、イスラエルはそうでないと発言。クッツェーは、南アフリカへのロシアやキューバの介入などを紹介。
○映画化されたクッツェー作品『恥辱』では、ジョン・マルコヴィッチが主演をつとめているのだが、クッツェーはそれがミスキャストだと発言。「Yes, John M. was miscast, but his performance was more subtle and less mannered than most of the things I've seen him in over the past few years --- good enough, in any case, not to destroy the mood of the story.」(この映画のDVDを買おうと思ったが、日本への輸入ができなかったことがある)
○オースターは携帯電話を使っておらず、逆に、昔のタイプライターを入手して喜んでいたりする。しかし、小説世界には新しい技術を取り込もうとしている模様。何となれば、それが現代のライフスタイルだからである。それに対し、クッツェーは断固として拒否。

など。

最近のオースターの作品に馴染めないといいつつ読んでいるわけだが、やっぱり、もうしばらくは読まない。

●ポール・オースターの主要な小説のレビュー
『Sunset Park』(2010年)
『Invisible』(2009年)
『Man in the Dark』2008年)
『写字室の旅』(2007年)
『ブルックリン・フォリーズ』(2005年)
『オラクル・ナイト』(2003年)
『幻影の書』(2002年)
『ティンブクトゥ』(1999年)
○『ルル・オン・ザ・ブリッジ』(1998年)
○『スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス』(1995年)
○『ミスター・ヴァーティゴ』(1994年)
○『リヴァイアサン』(1992年)
○『偶然の音楽』(1990年)
○『ムーン・パレス』(1989年)

『最後の物たちの国で』(1987年)
○『鍵のかかった部屋』(1986年)
○『幽霊たち』(1986年)
『ガラスの街』(1985年)
○『孤独の発明』(1982年)


ブーガルー・ジョー・ジョーンズ『Right on Brother』

2013-04-14 09:44:25 | アヴァンギャルド・ジャズ

Boogaloo Joe Jones (g)
Rusty Bryant (ts, as)
Charlie Earland (org)
Jimmy Lewis (fender bass)
Bernard Purdie (ds)

ブーガルー・ジョー・ジョーンズ『Right on Brother』(Prestige、1970年)を聴く。

ざっくり言えば、普通のソウルフルなジャズなのだが、ここでは普通とはコテコテを意味する。コテコテでなければ困る。要は癖になる食い物である。ギターとオルガンとは、カレーとカツのようなものだ(違う?)。

ブーガルー・ジョー・ジョーンズのギターは、線が太いシングルトーンが特徴的で、機敏な早弾きも含め、油が塗られた厚手の真新しい板バネのようだ。彼のことをピーター・バラカンがどこかで褒めていて気になってはいたものの、今に至るまでほとんど聴いてこなかった。大後悔。

そして琴線に触れまくるのは、バーナード・パーディーのドラムス。曲ごとに路線を変え、マンネリと言われようが関係なく、キメキメのフレーズを開陳する。ほとんど芸人である。2002年にロンドンで観たときのステージも、芸人魂を爆発させる爺だった。浅川マキがもっとも好きなドラマーだったというが、確かに、後期のロック味のマキさんと共演する姿を観たかった。

●参照
リューベン・ウィルソンにお釣りをもらったこと


シンディ・ブラックマン『A Lil' Somethin', Somethin'』

2013-04-12 23:53:48 | アヴァンギャルド・ジャズ

シンディ・ブラックマン『A Lil' Somethin', Somethin'』(32 Jazz、2000年)は、ブラックマンがMuseレーベルに残した録音のコンピレーションで、80年代後半から90年代前半の演奏が収録されている。

それにしても、何ちゅうヘアスタイルか。2008年にメルボルンのライヴハウスでブラックマンを観たときには、あまりのカッコよさに、目が釘づけになってしまった。ステージ上でプロポーズしたサンタナと結婚し、いまの名前はシンディ・ブラックマン・サンタナになっているが、サンタナだって、10%くらいはあのヘアスタイルにやられたに違いない。

いやいや、勿論ドラミングもアスリート的にスピーディーでカッコいい。最初に影響を受けたというトニー・ウィリアムスほどのアクがあるわけではないが、ブラックマンも独自な台風である。

この盤で共演している面々は、ウォレス・ルーニー、スティーヴ・コールマン、ケニー・バロン、ジャッキー・テラソンら、「ちょっと前」のスーパースターズである。いまでは時代の音のように聞こえてしまうものの、やっぱり、聴いていると熱く萌えてしまう。

だが、ひとつだけ難点がある。

ゲイリー・バーツは下手じゃないか?どこが取り柄なのか?


ブラックマン、メルボルン、2008年 Leica M3、Summicron 50mmF2、TMAX3200、フォマスピードバリアント311、3号フィルタ

●参照
メルボルンでシンディ・ブラックマンを聴いた


高橋哲哉『記憶のエチカ』

2013-04-11 00:02:48 | 思想・文学

高橋哲哉『記憶のエチカ 戦争・哲学・アウシュビッツ』(岩波書店、原著1995年)を読む。

ドイツによるホロコーストは、ユダヤ人虐殺だけでなく、その痕跡をも残さぬことを方針とした。その結果、何万人もの者が、生きた跡を残さず、どこの誰ともわからぬまま地上から抹消された。クロード・ランズマン『ショアー』(1985年)は、まさに、その「どこの誰ともわからぬ者」たちの、微かに残された声を吸い集めたドキュメンタリー映画であった。本書も、『ショアー』の衝撃により書かれた論考を含んでいる。

したがって、膨大なる声なき声を歴史の中に位置づけていくことは、どこの誰というラベルがいかなる形でアーカイブに残されているかという観点とは異なったものとなる。『ショアー』に対する批判にも、後者の観点に基づくものがある。すなわち、ホロコーストはなかったという歴史修正主義であり、従軍慰安婦、沖縄の「集団自決」、南京大虐殺に対してもなされてきた、誤った行為である。膨大なる声なき声に向けられる、人の想像力の問題でもある。

著者は、このような本質的に<記憶されえぬもの><語りえぬもの>が穿つ<忘却の穴>について、まなざしを向け続けることの重要性を説く。絶えず、想像力を決定的に欠いた為政者たちが、<忘却の穴>を、ただの<穴>だとして、内壁を削り取ろうとするからだ。

この点について、ハンナ・アーレントが残した言説に関する分析は興味深い。アーレントは<忘却の穴>を明確に見出しながら、その視線は揺れ動いた。彼女にとって記憶されるべきステージの人間は、どこの誰というラベルが付された<ヨーロッパ人>だったからである。もしアーレントがこのインターネット時代に生きていたなら、自らの痕跡を不自然なまでに刻んでいこうとするSNSを、どのように観察しただろう。

著者は、<記憶されえぬもの>を穴に落としたままの歴史について、エマニュエル・レヴィナスを引用してもいる。

「歴史の裁きはつねに欠席裁判である。」
「歴史の裁き、すなわち可視的なものへの裁きから帰結する不可視の侮辱は、それが叫びや抗議としてのみ生起し、あくまで私のうちで感得される場合には、いまだ裁かれる以前の主観性あるいは裁きの忌避を証示するにすぎない。」

こうして見てくると、記憶されたどこの誰が物語を形成する、スティーヴン・スピルバーグ『シンドラーのリスト』が、<知的野蛮>だとする著者の指摘にも、頷けようというものだ。

クリスチャン・ボルタンスキーのインスタレーション「MONUMENTA 2010 / Personnes」が、その膨大なる声なき声を、無数の古着によって表現していたことを思い出す。そこには、名前のタグはない。もちろん、顔も、その古着を来た人がどこに消えたのかもわからない。しかし、記憶の厚みはいかなる手を使っても消し去りようがない。

●参照
クロード・ランズマン『ショアー』
クリスチャン・ボルタンスキー「MONUMENTA 2010 / Personnes」
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、脱原発テント
高橋哲哉『戦後責任論』
エマニュエル・レヴィナス『倫理と無限』
エマニュエル・レヴィナス『存在の彼方へ』
ジャック・デリダ『アデュー エマニュエル・レヴィナスへ』
合田正人『レヴィナスを読む』


フランク・ライト『Center of the World』

2013-04-09 00:06:56 | アヴァンギャルド・ジャズ

Frank Wright (ts, bcl)
Bobby Few (p)
Alan Silva (b)
Muhammad Ali (ds)

フランク・ライト『Center of the World』(Fractal、1972、73、78年録音)は2枚組で、1枚目に「Center of the World」、2枚目に「Last Polka in Nancy」というタイトルがつけられている。

1999年にCD化された際に入手したのだが、1年の大半は棚の中で1ミリも動かない。たまには聴こうと思って、さっきから、続けて流している。ずっと座って聴いていると、頭が朦朧としてきて、ながら読みの本を床にぼとりぼとりと落としまくる始末。

ライトは、もう延々と、ただひたすらに、サックスをぐぎゃーぶひょーと鳴らし続け、時に興奮して叫んだりする。確かにボビー・フューの硬質で切れ味よく躍り出てくるピアノは格好いいが、それでも続けて聴くには限界がある。かつての、暑苦しくエネルギー全開、毛穴も全開、体液も全放出といったフリージャズである。こういうものを「愛聴」している人は世界にどのくらいいるのだろう。

ちょっとだけ、セロニアス・モンク風のメロディーを楽しんでみたり、ポルカでよくわからないが盛り上がる局面もあり、その時には涼しい風が吹いてきて救われたような気がする。

などと書いていたら、2枚聴き終わった。次はいつ棚からまろび出てくるだろう。

●参照
A.R.ペンクのアートによるフランク・ライト『Run with the Cowboys』
エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』(ペンクの絵の前でライトが吹く映像)


『カーボン・ラッシュ』

2013-04-07 18:23:42 | 環境・自然

NHK「BS世界のドキュメンタリー」枠で放送された、『カーボン・ラッシュ~CO2排出権ビジネスの実態~』(カナダByron A .Martin Productions / Wide Open Exposure Productions制作、2012年)を観る。(>> リンク

番組は、冒頭に、スコットランドにおけるCO2多量排出企業を横目に見つつ、また、ロンドンにあるヨーロッパ気候取引所(ECX)(一度訪問したことがある)の看板をことさらに示しつつ、環境NGOの人間が、CO2排出源からの直接削減以外は信用ならないと言うところからはじまる。環境経済の手法を端から否定しているわけであり、それは、論理ではなく、知識に裏付けられない感覚に基づいていることがわかる。

おそらく、この手の人にとっては、産業活動やオカネが環境と関連付けられることが我慢ならないのだろう。環境対策のコストを内部化し、経済の流れに乗せるということなど、受け入れられないに違いない。

そして、実際にCO2を削減する事業の実例として挙げられるのは、ブラジルにおけるユーカリ植林、インドにおけるRDF製造、ホンジュラスにおけるアブラヤシによる還元剤製造である。確かに、ユーカリ、パームともに生態系に悪影響を与えかねない植林の樹種であることは以前から知られている。また、RDFも条件が整わない限り無駄な事業になりうることも知られている。しかし、これらが不適切な事業であるということであって、それ以上ではない。こういった事業への参加を、欧州の企業も日本企業も回避することが多いことを、知らないのだろうか?

こんなドキュメンタリーはダメダメ。


『The Next Megaquake 巨大地震』

2013-04-07 11:27:08 | 環境・自然

NHKで放送された『The Next Megaquake 巨大地震』を観る(2013/4/6)。2回に分かれており、1回目は「3.11巨大地震 明らかになる地殻変動」(>> リンク)、2回目は「"大変動期" 最悪のシナリオに備えろ」(>> リンク)。

2011年東日本大震災(「3.11」)が起きた前後の観測結果やその分析により、そのメカニズムが分かってきている。

・プレート境界において、プレート間が一時的に固着した場所であるアスペリティの挙動について。
・それらが連動して動いたことについて。
・海洋底の地震直前の変動について。
・プレート端のひずみに伴う熱の発生について。
・巨大津波の発生メカニズムについて。
・今後の巨大地震連動の可能性について(南海トラフ、東京湾、琉球弧付近など)。
・巨大地震が起きたら数年間に例外なく起きるはずの火山爆発について(富士山など)。

なるほど、研究成果が、地震波の分析、フィールドワーク、古文書の分析、GPSデータの利用、衛星による大気質計測データの利用など、さまざまな手法を通じて紹介されている。わたしも修士までこの分野に身を置いたので、知っている顔もあらわれる。

ここに見られるのは、脅威をあおり、まるで地道かつ誠実な研究が地震予知につながりうることを示そうとする意図である。確かに、これまでにない精緻・詳細なデータ観測網は、いずれ、大きな成果となって結実するのかもしれない。

しかし、阪神・淡路大震災や東日本大震災など予期せぬ大地震によって残された教訓は、地震予知などはるか先に見えるかどうかわからない程度のものだ、ということではなかったか?

重要なのは、「備えよ」と抽象的に叫び、漠然とした期待とともに研究予算を焼け太りさせることではなく、地震や津波や火山噴火といった大災害は「いつ、どこで起きるかわからない」ということを認識し、都市やインフラをそれに適応させることではないのか?

知的には興味深くはあっても、メッセージの示し方について大きな違和感を抱くドキュメンタリーである。次の『Megaquake III』では、活断層と直下型地震(>> リンク)、そして長時間地震動(>> リンク)に、焦点があてられる。注目して観たい。

●参照
ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』
島村英紀『「地震予知」はウソだらけ』


ジャン=リュック・ゴダール『パッション』

2013-04-07 02:00:29 | ヨーロッパ

ジャン=リュック・ゴダール『パッション』(1982年)を観る。もう学生の頃に三百人劇場だったかどこかで観て以来。

ポーランド人監督による、ゴヤ「プリンシペ・ピオの丘での虐殺」や「裸のマハ」、レンブラント「夜警」などヨーロッパの名画をモチーフとした映画撮影。ヨーロッパの光と影をとらえることはなかなかできない。また、参加者たちの動きを統制することは、端から放棄している。事態は混沌そのものと化す。

映画において繰り返されるように、仕事は愛であり、愛は仕事に違いないことが、理由を超えて迫ってくる。そして、何しろ、ラウール・クタールによるアベイラブルライトでの撮影も、敢えて周辺音をずらした音づくりも、間合いも、ひたすらに繊細である。

改めて観ても、わけがわからないが、心を掴まれるほどに魅了されてしまう。すべての瞬間に価値がある。

何より、ハンナ・シグラの微妙に官能的な表情といったら、・・・!!

●参照
ジャン=リュック・ゴダール『軽蔑』 


アントニオ・ネグリ講演『マルチチュードと権力 3.11以降の世界』

2013-04-06 15:35:39 | 政治

アントニオ・ネグリが初来日している。2008年には政治的な理由によってヴィザが発行されず、そのつぎは震災の影響で中止、今回は「三度目の正直」といったところ。とはいえ気がついたら講演会の抽選が終了していたという体たらく、ネット中継で、1時間弱の講演を聴いた。

ネグリは、以下のようなことを話した。

○今世紀に入り、グローバリゼーションを掲げる歴史家たちが楽観的に過ぎたことが明らかになった。2001年の「9.11」、アフガニスタンやイラクでの戦争、2008年の世界金融危機、そして2011年の「3.11」。これらは、私たちが文明の限界の前に立っていることを示すものだった。
○ヴェネチア・ビエンナーレに参加した建築家・伊東豊雄による「みんなの家」は、<コモン>という側面での住居モデルを示し、破局の恐怖に見合う深さをもつ希望の息吹を示すものでもあった。
○<カテコン>(katechon)という概念がある。カール・シュミットも注目した、世界の終りを阻む力である。しかし、それだけでは不十分だ。私たちは、文明の限界からの積極的な脱出を実践しなければならない。新しい世界を創出し、再生の可能性を模索しなければならない。
○新たな世界は、個の<特異性>(singularity)の集合体たる<マルチチュード>を基盤とする。ここには、いささかのユートピア性もない(現実的なものでありうる)。
○<マルチチュード>は、脱・構成でなければならない。それゆえに、<持てる者の個人主義>に、<リヴァイアサン>に、<金融>に、<技術>に、抵抗される。
○<マルチチュード>への批判がある。それは、①危険な群衆と化す、②善と悪とに分裂する、③結局は統治の形態と化す、といったものだ。
○批判①に関して これまでの統治においては、<公>と<私>とが歪んだ形で分かたれ、それがネオリベラリズムによって極限まで推し進められていた。しかし、所有者が<私>たる世界は終焉を迎えつつあり、その代わりに、<認知労働>が社会を変えつつある。これまでの、閉ざされた個人から、ネットワーク化された<特異性>へとシフトするのである。
○批判②に関して 確かに、個々の欲望によって駆動される世界では、善の<マルチチュード>と悪の<マルチチュード>とが生まれることは回避しがたい。しかし、<マルチチュード>は<コモン>に結びついている。無数の<特異性>が交差し、出逢い、<コモン>という織物が生まれるものだ。この織物は、<特異性>の断片化・分散化によって、なかなか生まれないかもしれない。だが、この動きはずっと続くのである。やがては、<連帯性>が支配的となり、<通底性>が生まれることだろう。
○批判③に関して <マルチチュード>は統治機構の提起にとどまらない。<特異性>を<マルチチュード>の身体内部に作ることができるか、それにより<マルチチュード>が自立できるか、それがカギとなる。
○「3.11」によって顕在化した<原子力国家>の本性とは、「国家というものが社会を抑制でき、資本主義の優位性を示すことができる」という幻想である。この国家のもとでは、市民は、生きるか死ぬか、危険か死かという二者択一を迫られる。
○<原子力国家>の危機が発生したのが、たとえば「アラブの春」に象徴されるような<主権国家の危機>と並行していることは、偶然ではない。そのようななかで、<金融>も、低成長においても自立しうることをヒステリックに主張している。これらは、<特異性>や<マルチチュード>に、統治機構の中心の座を譲ろうとはしない。
○<生政治>的な人間像は4つある。それは、①債務を抱える人(オカネに服従する人)、②メディアに媒介される人(真理の歪曲に服従する人)、③安心を保証される人(国家統治により発生する治安に恐怖する人)、④代表される人(制度構築の偽りの規範に基づき、矛盾の総体を総括している)、といったものだ。これらは、馬鹿げたものとして、乗り越えられなければならない。
○<マルチチュード>の確立による<コモン>を基盤としたデモクラシーの実現を前にして、皆、深刻な不確実性と方向感覚の喪失に直面し、途方にくれているようだ。しかし、これは、希望にも転換しうる。
○近代以降の憲法には、<コモン>が入っていなかった。<コモンの憲法>が必要である。<コモン>の財産は、共通の富に従属する。科学技術さえも、<コモン>を超越するものではない。これによって、<知>を、みずからの手に取り戻さなければならない。
○従来の<固定資本>と<可変資本>は、その性質が異なるものとなってきている。<可変資本>は、<認知労働>を取り入れるべきであり、<固定資本>は、<特異性>の義手・義足とならなければならない。
○そして、<コモンの通貨>も必要である。従来の通貨ではなく、資本主義を乗り越えるべき尺度である。
○<コモン>を如何に作り上げるか。<コモン>はユートピアではない。私たちには絶えざる想像力が必要だ。

といったところ。

これまでわたしが感じてきた違和感は、<マルチチュード>は組織化されてナンボだといった感覚だった。おそらくは、ネグリのいう批判③に相当するものだろう。なるほど、成熟した思想となっているように思われる。納得しながら聴くことができた。

ただ、<科学技術>や<金融>に関しては、本人が否定する浅薄なユートピア思想の裏返しに過ぎないレベルのものだということは、あまりにも明らかだろう。ほとんど、下らぬ陰謀論の一歩手前である。しかし、これは、あくまで従来の<帝国>や<ネオリベラリズム>に抗するための対立軸であるととらえるべきだろう。その意味で、大変すぐれた思想の提起だと思えた。

●参照
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(上)
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(下)

ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Mechanical Malfunction』

2013-04-06 10:21:44 | アヴァンギャルド・ジャズ

Weasel Walter (ds)
Mary Halvorson (g)
Peter Evans (tp)

ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Mechanical Malfunction』(Thirsty Ear、2012年録音)を聴く。

同メンバーによる前の作品『Electric Fruit』(2009年)では、さまざまな音色やシーンを次々に眼前(耳前?)に展開してくれて、和音のコードのみならず、ジャズというコード(共通言語)からの逸脱も見えて愉しかった。

本作では、さらにその意思をあけすけに開示しているようで、聴いていて、こちらの脳が分裂し、雲散霧消するプロセスが愉快である。もはや、大きな物語(これだって、コードである)による回収を許さないのだ。ウォルターの遊び心満点のドラムスも、ハルヴァーソンが自在に音色を変え続けるギターも、それから、管という性質(これだって、やはり、コードである)からの逸脱と回帰を余裕でおこなうエヴァンスのトランペットも、何かに還元されるわけではない。

だからといって、これをもって「いまのジャズ」などと言ってしまっては、廻り廻って、歴史や時間や物語やジャズというコードに寄り添ってしまう言説に堕すことになる。面白いものである。聴きながら自動的に脳内で何かに変換しようとすると、タイトル通り、「機能不全」になるわけだ。

●参照
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Electric Fruit』
ピーター・エヴァンス『Ghosts』
ピーター・エヴァンス『Live in Lisbon』


ポール・ブレイ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Memoirs』

2013-04-05 08:24:02 | アヴァンギャルド・ジャズ

Paul Bley (p)
Charlie Haden (b)
Paul Motian (ds)

ポール・ブレイ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Memoirs』(Soul Note、1990年)は、ずっと聴きたいと思っていた盤で、最近ようやく入手した(いつでも聴けると思うと、こうなるものである)。

チャーリー・ヘイデン『The Montreal Tapes with Paul Bley and Paul Motian』(Verve、1989年)と同メンバー、ほぼ同時期の演奏ながら、雰囲気はずいぶんと異なる。『The Montreal Tapes』では、まるで3人が微笑みながらそっと触れあっているような上品さを醸し出しているのに対し、『Memoir』では、もっと「ぶっちゃけた」感覚がある。

際立った違いはヘイデンのベースか。特に、オーネット・コールマン作曲の軽やかなカリプソ曲「Latin Genetics」では、ヘイデンは、自分こそオーネット・スクール出身だと言わんばかりに、文字通り縦横無尽にベースを弾きまくる。何度聴いても吃驚するほどの自由さ、確信犯的に何かをどこかに置いてきたような演奏である。

「Monk's Dream」における、ブレイのよれていくピアノと、前面に出てくるヘイデンのベースとの絡み合いは、狂いそうな雰囲気を持つ。

ブレイの変態的かつ美に耽溺するようなピアノ、時間軸をゴムのように伸び縮みさせるモチアンのドラムスは、相変わらず素晴らしい。

やっぱり、男は狂気、男は色気。


昔、ポール・ブレイにいただいたサイン

●参照
ポール・ブレイ『Solo in Mondsee』
『イマジン・ザ・サウンド』(若いころのブレイが登場)
チャーリー・ヘイデンとアントニオ・フォルチオーネとのデュオ
Naimレーベルのチャーリー・ヘイデンとピアニストとのデュオ
リベレーション・ミュージック・オーケストラ(スペイン市民戦争)
ギャビン・ブライヤーズ『哲学への決別』(ヘイデン参加)
富樫雅彦『セッション・イン・パリ VOL. 1 / 2』(ヘイデン参加)
ビル・エヴァンス『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(モチアン参加)
ゴンサロ・ルバルカバ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン
キース・ジャレットのインパルス盤(ヘイデン、モチアン参加)
70年代のキース・ジャレットの映像(ヘイデン、モチアン参加)