この道って車で通る仕様になってんの?どう考えてもギリギリだし、ゆえに自転車と離合も無理で、歩行者は一段上のところを歩けってことなのか( ̄▽ ̄;)?
なんかこの危険な走行状態を見ていると、チキンランか何かやってるかのように見えるぜw
チキンラン、チキンラン、チキンランと言えば・・・やはりアカギだな(違う)。それなら、後ろの一台は鷲頭巌か!
カカカ、確かに今、ワシの車はアカギに後れを取っておる。しかしこういう時、追われる側はその圧力で思わぬミスをしてしまうもの。ましてこの命がけの走行となればな・・・つまり、流れはむしろワシ( 。∀ ゜)!
とか言っているうちに、前のアカギが理外の急ブレーキをかけて鷲頭カーが押し戻され、ぐにゃあ・・・となった鷲頭は車とともに谷底へ転落ってオチかなw
そんな妄想をしているうちに、東部の夢殿に到着。ここ東院伽藍が建造されたのは8世紀前半であり、法隆寺の建立から実に150年近く経ってからのことだ。
こういう文化財を見る時にはどうしても「完成した存在」、つまり始めからそのような姿だったという風に認識しがちだが、こういう歴史的な変化にも注目してみるとおもしろい。
前に神仏分離・廃仏毀釈が法隆寺に困窮をもたらしたと書いたが、こういった変化は他の寺院にも様々生じており、例えば今見る興福寺も決して小さくはないが、その昔はずっと遥かに広大な領地を所有していた。それが神仏分離など明治期での召し上げ、あるいは太平洋戦争後の農地改革での土地分配で大きく所有地を減らした結果が今日の姿なのである。
そう言えば寺院の消失について、最近ノートルダム大聖堂のそれが話題になったが、まして木造の寺院が消失するケースは歴史的に多く見られ、その都度再建が話題になり、またそれを行うことで庇護者として教団と結びついたり、自身の政権の正当性を知らしめる、といったことを源頼朝などはやっていた(再建の支援者としての立場を奥州藤原氏と争っていた点は、いわゆる「東国政権」としての鎌倉幕府という観点で興味深い)。
そういう歴史的変遷に目を向けてみるのも、理解を深める上では非常に有益だろう。
こちらは法隆寺に隣接する中宮寺。聖徳太子(厩戸皇子)の母を祀ったとされる尼寺である。
下が石垣造りで周囲が堀で囲まれた不思議な本堂に入ると、集団で座って文化財の由来を聞く、という仕組みが今までない(ある意味コンベアー式で合理的w)感じでおもしろかった。
というわけで色々見た後法隆寺前に戻ってきた。
最後に広い境内をもう一度撮影。
ほな次行きましょか。
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