居間にある5・6月のカレンダーの絵は、九代目市川団十郎の錦絵だった。「九代目」は、低く見られた歌舞伎を高尚な芸術に深めた明治を代表する改革派「劇聖」でもある。気になる草書体は「千歳一遇はものかは 御覧のかたしけなきは みちとせの花にあひにける思ひを」と書いてあるようだが、オイラの脳髄ではよく分からない。その次には「桃仰く猿や山伏野にふして」と「九世三升」(団十郎の俳名)の名で表現している。最後に、「杖置やあたかも是に大事の日」は「福助」(四代目中村福助=五代目中村歌右衛門)が並んで登場。
この錦絵が発行されたのは、明治20年(1887年)6月。「やまと新聞」の付録(近世人物誌シリーズの9回目)として発行される。作者は幕末から明治中期に活躍した月岡芳年、「芳年写」の落款が右側にある。ちなみに、浜松市美術館で「国芳から芳年へ」が秋に開催される。芳年というと血まみれの残虐な絵しか知らないが、ほんとうはジャンルが広いようだ。
明治天皇を招待した「天覧歌舞伎」を井上馨外務大臣の邸で開催したという記事が冒頭に書いてあるのが新聞らしい。今でいうスポーツ新聞の草わけだ。政府のねらいは、西洋のオペラに匹敵する伝統の歌舞伎を鹿鳴館時代の中で紹介したことだ。前代未聞のことなので、出演者は緊張のあまりブルブル震えたそうだ。天皇は人間ではなくリアルな「神」だった。
芸術家肌の九代目団十郎は、歌舞伎に新風を巻き起こしたが、同時に国粋的な「神習教」の教派神道を信仰し、当時の明治の時代精神をも表象していた。そのため、市川家は本来は成田山の真言宗だが、いまだに「神習教」系の神事を継承しているらしい。保革の相克と調和とが同居しているのが歌舞伎の現状でありバネともなっている。その先陣を拓いてきたのが9代目団十郎ということになる。