わが畏友、セニョール氏が昨夜亡くなった。最後に会ったのは今年の2月13日、山猿さんらと一緒だった。二人は第4ステージの癌仲間だった。オイラはからくも第1ステージギリギリだった。三人の出会いは森林散策会のボランティア仲間だった。さらに、その散策会の参加者だったブラボーさんも癌仲間に加わって4人の患者会となった。退院間もない山猿さんの元気さにあおられて救われたこともあったが、セニョールさんの様子は歩くのがよたよたして、立っているのがやっとだったと思う。

二日前の11日には、ハッサクを収穫させてもらった。そのとき、セニョール氏から自分はあと余命8カ月なのだということを告白された。そのことで頭がいっぱいになったようでオイラはハッサクの樹から落下してしまった。顔と腰を打撲して一瞬意識が途切れてしまったように思えた。セニョール氏はすぐさま近所の人を呼んでくれてオイラの容態を見てくれた。さいわい、歩けたし、車の運転もできたが顔面はお岩さん状態になり、腰は内出血で全面紫だった。

そんなこともあったが、オイラ自身のがんセンターへの通院があったりして、その後、セニョール農園へ行きそびれてしまった。セニョール氏からの最後のメールになってしまったのが3月23日で、しっかりした内容だったので安心してしまった。
オイラが中山間地へひとり不時着したとき、知り合いは一人もいなかった。そんなとき、ボランティアとのつながりがはじまり、先輩セニョール氏からの田舎暮らしの薫陶はおおいに励ましとなった。そのうえ、一緒に尾上邸での野外コンサートもやるようになった。

またときどきセニョール農園にお邪魔して、たくさんの野菜の苗をいただいたり、果物の収穫をさせてもらったり、農的暮らしのすばらしさを直接うかがったり、オイラの暮しの刺激とヒントとを大いに与えてくれた。わが畑には「セニョール遺産」と呼んでいるが、いただいたコンニャク・キクイモ・ポポー・ブルーベリー・スモモなどが今も育っている。なかでも、ブルーベリーやコンニャクの占める面積は畑の4分の一は占めると思う。

クリスチャンでもある氏は、「戦争になったらいちばん先にコロリとやられてしまう性格だからね」と言うくらい優しさにあふれている。本人は「おれは適応障害なんだよ」と漏らしたことがあったが、それはそうした優しさがなせるもの以外にはない。
会うのが楽しみだった。会うとホッとできる瞬間だった。そのことで生きる勇気をいただいた。だから、お互いの住んでいる距離は車で1時間40分くらいかかったが、いつでも心の支えとなっていた。だから、知らない土地に住んでいても孤立も孤独も感じないで済んだ。もう一歩、お返しをしたかったところが悔やまれる。畑にセニョール遺産があるからいつも一緒にいられるよ。オイラもそのうちそこへ行くから席を開けといてねー。合掌。