最近になって谷沢永一の『いつ、何を読むか?』(KKロングセラーズ 2006.10.1)を読んだ。三十歳代に読む本の一冊として、『漱石の源泉』(飛ケ谷美穂子著 慶応義塾大学出版会 2002.10.30)が選ばれているのだが、その中で比較文学研究者の間で党派が垣根を著しく巡らせており、「それゆえ、慶応の出身で学会に身を置かない飛ケ谷美穂子が『漱石の源泉 創造への階梯』(平成14年)を刊行した時、書評の筆を執った飯島武文も松村昌家も高く評価せぬよう言葉を濁し、小谷野敦に至っては、まあメレディスの長篇をいくつも原書で読んだだけでも多としようか、と嘲笑する始末であった。」(p.107)と書かれていて、他の2人は知らないが、小谷野の評価が気になって調べてみた。
谷沢が小谷野のどの文章を読んだのか分からなかったが、最近の著書『夏目漱石を江戸から読む』(中公文庫 2018.5.25)の拠るならば、「飛ケ谷美穂子『漱石の源泉』(慶應義塾大学出版会 ニ〇〇二)は、漱石へのメレディスなど英国小説の影響を考察した好著」とした上で「この引用箇所を漱石の解釈どおりにとっている」(p.206)と指摘している。どうやら解釈の問題があるようなので、そこを取り上げてみたい。
問題として挙げられているのは夏目漱石の長編小説『行人』である。会話をしているのは主人公の長野一郎と弟の二郎である。小谷野の著書から引用してみる。
「御前メレヂスといふ人を知つてるか」と兄が聞いた。
「名前丈は聞いてゐます」
「あの人の書簡集を読んだことがあるか」
「読む所か表紙を見た事も有りません」
「左右(そう)か」
(略)
「其人の書簡の一つのうちに彼は斯んな事を云ってゐる。-自分は女の容貌に満足する人を見ると羨ましい。女の肉に満足する人を見ても羨ましい。自分は何(ど)うあっても女の霊といふか魂といふか、所謂スピリツトを攫(つか)まなければ満足が出来ない。それだから何うしても自分には恋愛事件が起こらない」
「メレヂスつて男は生涯独身で暮したんですかね」
「そんな事は知らない。又そんな事は何うでも構はないぢやないか。然し二郎、おれが霊も魂も所謂スピリツトも攫まない女と結婚してゐる事丈は慥(たしか)だ」(「兄」二十)
再びメレディスの登場である。一郎が言いたいのは、確かに自分は夫として妻お直の肉体を所有しているが、心が通い合っていない、ということでしかないだろう。だが、メレディスがこのような事を言ったのか、言ったとすればどういう意味でなのか、気になるところだ。(p.192-p193)
その後、書簡集から小谷野が訳しているものと思われる問題の箇所が翻訳されている。
私はたいへん体の具合が悪いので、魂に触れることによってしか女性を愛することができないし、(いわゆる「神の天使」である)生命の事実に抗う力が働いてしまうのだ。だが私は、目が捉えるものに引かれる人々、-そう、女性の肉体とか、その他諸々に対して貧欲な人々にさえ羨望を感じているよ - 実に羨ましい! 私の場合、そういう欲求が一時間以上もたないので。
英文学者夏目漱石がこれほどの誤読を犯した、あるいは誤読と知りつつ援用したというのが、まことに興味深い。因みにメレディスはこの二年前に最初の妻が別の男と駆け落ちしているのだが、この書簡の「タンホイザー」に関する部分から窺われるのは、彼が「肉体的愛」は「精神的愛」に劣らず重要だと考えていることだ。そして問題の部分では、婉曲的な言い回しが取られてはいるが、良く読めば、単に健康状態が思わしくないので、女性の肉体に対する健全な欲求が衰えている(あるいはインポテンツ)、と嘆いているにすぎないのである。「神の天使」とか「生命の事実」とは、性行為の婉曲的表現だろう。「肉体だけでは満足できない、だから恋愛事件が起こらない」などということは、まったく言っていない。
意図的かどうか知らないが、漱石によるメレディスの誤読は、「西洋的恋愛」は精神的なものだ、という近代日本知識人の典型的な誤解、あるいは単純化を示している。(p.194-p.195)
飛ケ谷が書簡集の問題の箇所をどのように訳しているのか『漱石の源泉』から引用してみる。
……僕はじつに不幸にして、魂まで感じなければ女性を愛することができない性質(たち)なのだ。……だが見た目にひかれるという人たちが、僕は羨ましい。-そう、女性の肉体だの何だの、どうでもいいようなことに好みを持つような連中さえもが - 羨ましくてならない。僕の場合、そんな気持は一時間と続かないのだ。(p.179)
どちらの解釈が正しいのか原文を引用してみる。
I am so miserably constituted now that I can't love a woman if I do not feel her soul, {and that there is force therein to wrestle with the facts of life (called the Angel of the Lord). }But I envy those who are attracted by what is given to the eye; — yes, even those who have a special taste for woman flesh, and this or that particular little tit-bit — I envy them! It lasts not beyond an hour with me. (『Letters of George Meredith. vol. 1』p.54)
飛ケ谷は{}の文章を省略しているのだが、2人の翻訳において大きな違いは「miserably constituted」という部分で、小谷野が「たいへん体の具合が悪い」と訳しているのに対して、飛ケ谷は「不幸な性質」と訳している。つまり悪いのは「肉体」なのか「精神」なのかという違いなのだが、ここで拙訳を試みてみる。
私はとても哀れな性分で、もしも私が女性の魂を感じないのならば私は女性を愛することが出来ず、(神の天使と呼ばれる)生命の事実と取り組むためにそこ(魂?)に力があるのだ。しかし私は、目が追うものに惹かれる人々が羨ましい。-そう、女性の肉体に特別な嗜好を持つ人々や、あれやこれやと特殊な細かい癖を持つ人たちが。私は彼らが羨ましい! 私にはそのような考えは一時間以上は続かないから。
どう考えても「miserably constituted」を小谷野のように「たいへん体の具合が悪い」と解釈するには無理があり、ここは飛ケ谷のように性格の問題と捉えるべきであろう。因みに当書簡が書かれたのは1861年、81歳まで生きたメレディスはまだ33歳で1864年に二度目の結婚をし、2人の子供を儲けるのだからインポテンツで切実に悩んでいることはないだろうし、寧ろ事実として1861年に最初の妻が亡くなっている点を汲み取るべきではないだろうか。
『それから』にしても『行人』にしても夏目漱石は「視覚」を問題にしている。『それから』において主人公の代助が「見えない」が故に相手の三千代の想いに気がつかず、『行人』において主人公の長野二朗の兄の一郎が「見えない」が故に妻の直の想いに確信が持てないのである。そしてそのような「見えない想い」を「可視化」しようと試みた作品が「こゝろ」ではなかったのだろうか?