寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

「“原発”に揺れる町~山口 上関原発計画・住民たちの27年~」

2009年11月14日 | 日記
多くの国民が電力を浪費し、世界が二酸化炭素排出量削減に取り組む中、原子力発電所の果たす役割は少なくないと思う。しかし、私自身は原発について深く考えたことはなかった。原発とは都会から遠く離れた所に建設されるということを漠然と認識しているだけだ。

20代の時、私は関東で暮らしており、新鮮な魚を求めて常陸那珂湊へ定期的に買い出しに行った。その際には必ず東海村の前を通らなければならなかった。正直、気分は良くなかった。放射能漏れ事故がたまに発生していたからである。あの辺りで獲れるヒラメやツブ貝が馬鹿でかいのを見て私達は「ここまで大きくなるのは放射能の影響だろうか」などと下らない冗談を飛ばして恐怖感を打ち消していた。

NHK(ふるさと発)制作の上関原発絡みの番組を見ながら、昔の記憶の糸を辿って苦笑したのだ。番組は反対派と推進派の双方を取材していた。豊かな漁場が損なわれることを心配する祝島の漁師、原発誘致によって国と電力会社からもたらされる財源で町おこしをするべきと考える人、どちらの言い分も正当性がある。上関町民は2つに分かれて27年間も争ってきた。「町の皆が幸せになることを忘れてはならない」という推進派の言葉が頭からしばらく離れなかった。

というのは、交付金で温浴施設やふるさと市場を建設して果たして人口増加(町の活性化)につながるのだろうかと疑問が生じたからである。

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茶のこころ世界へ / 千玄室(NHK人間講座)

2009年11月14日 | 書籍

時々手に取って読みたくなる本が幾つか書斎にある。そのうちの一つをご紹介するとしよう。NHK人間講座「茶のこころ 世界へ」は2004年8月に発行されたもので当時著者は裏千家の十五代家元であった。利休の追い求めた世界を分かりやすく説明すると共に現代人へ苦言を呈している。

 茶道では、亭主と客が一体になるということをやかましく言います。亭主は客の心になり客は主の心になり、ということが主客互換、賓と主が一緒になるということです。お互いがお互いの心になりあう、ということをいちばん大きな道として教えるわけですので、そいういう意味からも、お茶によって悟りという境地に達するのは禅の悟りとほぼ同じであるということがいえるのです。

 利休が主張するわび茶についての思想的、哲学的な教えが、『南方録』という本に残されております。その冒頭に「家は漏らぬほど、食は飢えぬほどにて事足れり。薪水の労をとり、ただ湯をわかし茶をたてて、仏に供え、人にも与え、我も飲む。花を供えて香を焚き、これみな仏祖のあとを行なうものなり」と書かれています。

 家は漏らぬほど、食は飢えぬほどというのは、いうならば分相応です。人間にとっていちばん何が大事かと問われれば、人によって生きるための手段はいろいろあるでしょう。でも、その人、その人の生活というものは、他人が口を出せない領分でもあります。ではありますが、分相応という気持については、すべての人間が持っておく必要のある非常に大事なことであるといえます。それを利休は茶の湯の根本の思想として教えたわけです。それから薪水の労をとる。湯を単に沸かすにも、自分が薪を割って、そして炭を作って、その炭で湯を沸かして、ほどよい湯加減ができたところで、その点てた一服のお茶は、自分がさっさと飲むのではなくて、自分が自服するのではなくて、まず仏様にお供えする。今、自分がここにあるということは、ご先祖との長い長いつながり、さらに親とのつながり、兄弟、同胞たちとのつながりがあって、ここに生きさせていただいているということを感謝しなければならない。それがために、まず仏に点てたお茶を供える。そしてそこにいる人にも与えて、最後には自分がいただくという教えです。

 利休居士はここでいま一つ大切なことを教えます。それは、知足安分の教えです。…汗水たらして収穫したものをキリスト教では神にささげ、茶の湯では仏にささげるのです。そしてともどもにその収穫を喜び合ってお互いに分け合う、相手にまず差し上げる。一日の労をねぎらい、いちばん最後に自分がそれをいただく。…

 物質文化を謳歌する現代社会では、物のありがたみが失われつつあります。そして、足るを知らずに物質的欲望に走り、物質的欲望に振りまわされがちです。血眼になって、おのれの利益追求を際限なく展開します。そこでは手にした物質の代償として、精神の安定が失われていきます。…

 四百年前の身分の上下や立場をやかましくいった時代に、武士といえども帯刀をしたまま茶室に入ることは許されません。茶室の入り口には刀掛があり、刀をそこにおいて扇子一本で茶室に入るのです。小さな躙口ですから、入るときにはどうしても平伏しなければなりません。そのとき、人は自分の足下を見つめます。これは人間にとって大事なことで、自分を省みるという心が生じます。そこに心の転機があるのです。

 茶室に入った人は、いままで知らない者どうしでもそこに座った以上は深い人間関係を持つようになります。そのつながりというものは一碗のお茶ではありますが、人間が人間に対し、相通じあってゆく道が自覚できるわけです。すべてが傲慢になってしまった現代人にとって切磋琢磨の行為は最も大切なことではないでしょうか。

 最近はグルメになって懐石といっても贅沢すぎますね。懐石というのは旬のものを本当に、さっと差し上げるということです。

 人間には出会いというものが非常に大事です。世界中のどこの国の方々とも、言葉ができなくても、出会い、触れあうことが大切です。同時に、お互いの心が癒されるということのために、この一碗の茶を点てさせていただきますという気持ちで点てています。

 神仏に供えるのと同じように、人間はみな貴人、みんな尊い人だと思うのです。だから、みんな尊いという気持でお互いが接したならば、忌まわしい事件は起こりません。人の心が驕り、自分たちの主張だけが正しいと思ってやっていくと、人間を不幸に落としてしまいます。

 人間どうしは本当につまらぬことでいさかいをしたり、他愛もないことで争います。そんなことより大きな気持を持って、お互いのやっていることを見守ってあげよう、理解してあげよう、近づいていってあげようという気持がなければならないと思います。

頭から湯気を出している西方の山猿さん、理解できたかい。歪んだイデオロギーにとらわれていては進化しないよ。答えは複数あるから面白いんだと私は思う。

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする