北杜夫(本名:斉藤宗吉)さんの自伝的小説を初めて読んだのは二十歳前後の頃で笑い転げたことをよく覚えている。今この本を読み返すと人生は悲喜劇の繰り返しだという思いを強くする。小説の冒頭には実に意味のある言葉が並ぶ。
青春とは、明るい、華やかな、生気に満ちたものであろうか。それとも、もっとうらぶれて、陰欝な、抑圧されたものであろうか。
むろん、さまざまな青春があろう、人それぞれ、時代に応じ、いろんな環境によって。
ともあれ、いまこうして机に向っている私は、もうじき四十歳になる。四十歳、かつてその響きをいかほど軽蔑したことであろう。四十歳、そんなものは大半は腹のでっぱった動脈硬化症で、この世にとって無益な邪魔物で、よく臆面もなく生きていやがるな、と思ったものである。まさか、自分がそんな年齢になるとは考えてもみなかった。
しかし、カレンダーと戸籍係によって、人はいやでもいつかは四十になる。あなたが二十七歳であれ、十五歳であれ、あるいは母の胎内にようやく宿ったばかりにしろ、いつかはそうなる。従って、四十歳をあまりこきおろさないがいい。そうでないと、いつか後悔する。
人間というものはとかく身勝手なもので、私は五十歳になれば五十を弁護し、六十になれば六十を讃美するであろう。
北さんは敗戦の直前に旧制松本高等学校に合格し、東京を離れる。松本を選択した理由は受験倍率の低さもあったらしい。
昭和二十年八月一日、新入生たちはヒマラヤ杉に囲まれた古風な校舎のある松本高等学校の門をくぐった。そして一場の訓辞のあと、校舎とは縁を切られ、そのまま大町のアルミ工場へと送られた。
新入生を指導してくれる上級生はいなかったものの、しかし何人かの落第組がいた。このドッペリ生は、旧制高校の伝統をせい一杯に私らに伝えてくれた。大体ほかの学校では落第生は小さくなっているはずだのに、高校では彼らは大きな顔をし、堂々たる指導者なのであった。彼らは寮歌を教え、集会コンパを開くことを教えた。その多くは観念的な形骸で、今の世にもってきたら噴飯物であることも確かだが、それでもやっぱし何ものかが含まれていたと言ってよい。
この作品では主人公が蛮カラな先輩や同級生に囲まれて馬鹿をやりながら成長してゆく様子がユーモアたっぷりに描かれる。どんなに窮屈な時代であっても人は楽しみを見つけようとすることが読み取れて面白い。
終戦から一ヶ月経ち、九月二十日、学校は再開された。私たちは今度こそ勉強を業とする学生として、ヒマラヤ杉の立ち並ぶ校門をくぐり、伝統ある思誠寮に入寮したはずだ。
しかし、いくらも授業はなかった。半分は旧練兵場を畠にする作業だったり、休講も多かった。教師もまた飢えているのだった。
戦が終ってからも食糧事情はたやすく改善せず、学生は小粒のアマガエルの肉片をヒーターであぶり醤油をつけて食べたりもしている。
毎度の雑炊がだんだんと薄くなっていった。それに箸を立ててみて、箸が立つときは喜ばねばならなかった。そのころ最大の御馳走は、固い飯のカレーライスだったが、それも米ではなく、コーリャンの飯であった。はじめ米とまぜて赤白ダンダラだったものが、ついにコーリャンだけの赤い飯になってしまった。
食卓には大根などの漬物も出た。四人に一皿で、ちらと見てそこに十四切れあるとすると、なんとか体面を損わず、ごく自然に四切れを食べられないものかと、私は痛切に考えた。大根にはいくらかのビタミンがあろう。そして当時の私たちにとって、「栄養失調」という概念は今の世なら癌に当るのであった。
コーリャンは馬の餌である。それを弁当箱に詰めて疎開先の学校に持って行く毒蝮三太夫さんは心無い同級生からからかわれたと告白していたが、「食べられるものは何でも口にした時代」が我が国にもあったのだ。
高等学校の寮歌では、青春とは、よく涙とか理想とか追憶とか戦いとか苦悩とか創造だとか歌われる。私の場合には、まず空腹があり、そのあとでようやく涙や追憶や創造が出てきたようだ。
ともあれ、学校が再開されたその秋は、畠のネギを盗んできたり、柿を盗みに行ったり、そんなことばかり思い出される。盗むことを私たちは「パクる」と言った。「包むパッケン」からきた言葉らしい…
これを読めば昭和一桁生まれが「物を粗末にするな」と口すっぱく言う理由がよくわかる。私などは祖父母、両親から当たり前のように教えられた最後の世代であろう。その躾(しつけ)は今でも生きている。