以前広島市西遊廓跡(現・中区舟入町)について書いたのでいずれ後発の東遊廓跡のことも取り上げたいと考えていた。そして漸くこの夏に再調査を行う運びとなった。東遊廓誕生の経緯は『がんす横丁(前述)』の一節を引用させてもらおう。
火の見小路につながる薬研堀は、下柳町(※)と同じ濠(堀)があって、広島のシンボル柳がその近くに植えられていた。大山元帥の肝入りで、姫路から五軒の遊女屋をよんで、明治二十八年に東遊廓ができた。
角川日本地名大辞典の平塚町(明治15年~昭和40年)の項には次のように記されている。
東遊廓は日清戦争後の明治28年当町・下柳町・薬研堀にまたがる地域に設けられ、昭和8年にはこの3町から分離し、弥生町となった。第2次大戦後鶴見橋東詰から新己斐橋の間に平和大通を建設。また駅前通りが中央部を斜めに貫通し、町は二分された。40年東平塚町・西平塚町・銀山町・田中町・弥生町・鶴見町・宝町となる。
つまり中区西平塚町及び薬研堀・弥生町・銀山町の一部などが東遊廓のあった場所になる。しかし、原爆投下によって西遊廓と同様に焼失しているので私達は敗戦後にできた赤線の建物(取り壊しを辛うじて免れている物件)しか見ることができない。私は元妓楼と思われる建物の前で立ち止まった。
※著者注 現・広島市中区銀山町かなやまちょう・橋本町
