寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

福山今昔その3・船町のはぶ文泉堂と和田兵林堂

2012年08月08日 | 日記
私が小学校に通っていた頃、とおりちょう(本通)で最も有名な文房具屋がはぶ文泉堂だった。現在地は笠岡町4-22だが、福山空襲によって焼け落ちる前は船町エリアに含まれていた。木綿橋北詰(店の南側の道路が入江の跡。入江の北側は北浜と呼ばれた)であるのは同じだが、位置は若干違う。

昔の店舗は商店街の西側にあった。つまり現・はとやビル(笠岡町1‐21)辺りと思われる。敗戦後もここで営業を再開したが、昭和40年の地図には通りの東にも店舗が載っている。私が物心ついた頃には西側の店は既に無かった。

戦前のはぶ文泉堂の位置から少し北に和田兵林堂があった。私が所有する昭和5年の福山市街地図は兵林堂が販売元になっている。いつ移転したかは不明だが、平林堂書店(教科書などをここで購入した記憶がある)の跡地が輝美堂(笠岡町4‐24)だ。

※㈱八杉商店のホームページにアクセスすれば戦前の市街地図(文化の中心であった船町周辺)の一部を見ることができる。

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廣高と原爆‐被爆55年・回想と追悼‐ / 廣島高等学校同窓有志の会(平成十二年)

2012年08月08日 | 書籍
原爆投下と福山空襲の惨状を間接的に見た内海健寿さん(旧制広島高等学校・昭和23文甲)による回想。敗戦間際の広島・向洋・福山が一点で繋がる点で非常に重要な証言だと思う。幅広い世代が戦争と平和について考えるきっかけになれば幸いである。個人的な感情を一度取り払って史実を直視することが最も重要だ。

一九四五年八月六日 ‐オダネルとの出会い‐ 内海健寿

 一九四五年(昭和二十年)八月六日八時ごろ、私は学徒動員で広島の東隣、向洋にある日本製鋼所報国寮の二階の一室の南の窓から外を眺めていた。バスは何台も広島に向かって走っていった。私は最近習い始めたドイツ語のテキストを見ていたとき、突然、すさまじい閃光のひらめき。驚いて私は寮生たちと北側の窓から見ると、西の上空に灼熱の光の塊がもくもくと動転しているではないか!その直後、猛烈な轟音と爆風、ガラスの破片の散乱する廊下を一目散に走り。庭の防空壕の中に逃げ込んだ。…しばらく待機したが後は沈黙。おそるおそる壕から出てみるとさっきの火の塊は消え、夏の白い積雲が空にそびえ立っていた。廣高生たちが、「火山の噴火か」「ガスタンクの爆発か」という中に、「原子爆弾だ」と一人の理科生が叫んだ。…
 私は一九四四年、広島県福山誠之館中学校(現福山誠之館高校)五年生のとき、学徒動員で広島県の因島の占部造船所田熊で勤労に従事していた。その中学校から廣高(現「広島大学」に統合)に一緒に入学した三人の友人についての想い出は深い。入学したのは七月下旬、入学式には向洋から広島市の南の廣高まで歩いて行った。…
 広島は疎開が始まっていたけれども、空襲はまだ一度も受けてはいなかった。静かな町であった。この年の四月、入試のとき、私は母と二人で広島の町をあちこち散歩したものだ。私の母はかつて広島に住んだという。運命の八月六日、その日は工場は電休日で作業は休日であった。…当分の間、休みはないだろうというので、多くの学生たちはこの休みの日に早朝から広島へ外出していたのだった。
 私は前日の夕方、工場の作業を終えての帰り道、橋の穴にわらじばきの足が落ちこんで傷を受けていたので、外出をひかえて寮にいた。このことを一昨年オダネル氏(元米従軍カメラマン)に話したら、彼は即座に“You are lucky.”と喜んでくれた。
 原爆投下後、私たち残留の寮生たちは二班に分かれた。第一班はトラックに乗って被爆した広島の町へ行き、罹災した廣高生たちを探し出し寮へ運んで帰る。第二班は寮に泊まり連れ帰った被災した寮生の看病にあたる。私は第二班所属となった。…誠中から進学した杉原卓之君は、連れて帰る途中のトラックの中で息絶えた。…
 同じく誠中から進学した中島昭あきら君と安原克まさる君は、広島の練兵場に横たわっているところを発見され連れ帰られた。中島君はピアノが上手で、誠中の二階の音楽教室で、貴重な時間をつくってしばしば彼の名演を聴かせてもらった。…田熊造船所でも「現図」という同じ職場で苦楽を共にした。…美少年の彼が被爆から連れ帰られて寝かされた姿は、なんと目を蔽う惨状。黒い服を着ていたためか顔も真っ黒で焼けただれ、ほとんどしゃべることもできない。足の指にはうじがわいていた。手の施しようもなかった。
 安原克君は、この三人の中では一番体力があった。意識もしっかりしていた。彼は田熊時代は造船所のドリル班にいた。「わしゃ、広島へ行きとうにゃのう」(私は広島へ行きたくない)。彼のこの発言は今も私の耳に鮮やかに残る。自己の運命を洞察したのか。…いま彼が被爆して寮に連れて帰られて、私が尋ねたとき彼は言った。「内海、おまえは広島へ行かなんでよかったのお。わしはうっぴゃ悪いですなあ」(私は調子が悪い)。彼の会話には危機に直面しても、なおユーモアがあった。
 それから薬とて何ひとつない寮。先輩の佐藤氏(寮長)から私は、「おまえ、福山へ帰って彼の薬局に行って薬を持ってきてくれないか」と依頼された。そこで私はただちに九日、汽車に乗り福山へ急ぐ。その車中には兵隊さんがいっぱい乗っていた。その会話でソ連の参戦を聞いた。ところがその前日の八日夜には福山は焼夷弾の空襲を受けた。実は彼の父はリュックサックに薬を一杯詰めこんで八日の夜、向洋の息子のところへ行く準備をして福山駅の待合室にいた。そのとき突如、空襲が始まり、リュックサックをぶん投げて命からがら逃げたという。九日の夕刻、私が福山駅に下車し焼跡を歩いたとき、まだ火が燃えていたところもあり、熱気を感じた。彼の薬局も焼かれていたが、私は彼の家族に連絡ができて彼の弟(のち東大農学部助手)が翌日私に薬を持ってきてくれた。私はこの薬を持って気をはずませ向洋の寮に急いだ。寮の前で出迎えてくれた栂野氏(副総務)から聞いた。「中島君と安原君は亡くなりました」
 後から聞いた安原君の最後の言葉「みなさん、どうもお世話になりました。ありがとう」。…

 八月六日の夜日本製鋼所の第三報国寮で負傷者の看護のとき、広島の上空に敵機が現れた。「焼け残ったところをまた攻撃する」といって、人びとはいそいで近くの山に逃げた。おそらく被害状況撮影のために飛来したのであろう。被爆直後、爆心地では泥の黒い雨が降ったという。焼け残りにさらに油をまいたとか、これは高熱直後の反応の降雨のことだったのか、恐怖からのさまざまなうわさが飛んだ。
 小さい山に避難したとき、上野教授(物理)のお母さんがおられた。「倒壊した家屋から逃げ出すとき、娘が『お母さん 助けて!』と泣き叫んでいたが、火がまわってくる家屋の下敷きの娘をどうすることもできないで、ひとり逃げてきました。あの娘の悲鳴が、いまも耳から決して離れない」。

※著者註
 昭和11年頃の福山市街地図を参考にすると安原薬局は現在の大黒町1‐25辺りにあったことになる。

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