寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

福山市若松町1・水野家墓所(その3)

2013年12月04日 | 郷土史
水野勝成公の業績として忘れてはならないのが治安維持システムの確立である。城下の出入り口や主要な街道沿いに監視所を設け不穏な情報を収集するとともに裏で悪事を働く者共を厳しく取り締った。私が調べたところでは近代の司法警察組織は17世紀の半ばまでには出来上がっており、相当な成果を上げていた。後の榎峠における罪人の御仕置と晒しが犯罪発生率の低下につながったことは容易に想像がつく。

水野忠重公の墓など

勝成公の五輪塔から西側に父忠勝公、三男そして五男の墓が並んでいるが、その位置は戦前とは少し異なる。墓所が移された経緯は『聞書き東学区物語増補復刻版(平成二五年九月発行)』に書かれている。

 戦後、都市計画道路によって墓域の南部と西部が削減され、北へ広げられた。北隣の光善寺の墓域にあった樹木数本も、そのまま水野家墓地に編入となり、その後植えた若木も成長し、県史蹟にふさわしい木立になった。
 墓域が北によったため、初代藩主勝成の五輪塔を移転するのやむなきに至り昭和三十二年、東北へ約二〇㍍移した。このときの様子は『福山の歴史下巻』にくわしく書かれている。勝成墓碑移転前の中心点の標石が南の石垣の内側ぎりぎりのところに置いてある。
 現在、維持管理がよく施されているが、東学区民は地元として、この史蹟をさらに大切に保全し、後世に伝えていく使命があると思う。さいわい東隣に水野公園があって、幼童は遊戯の間に五輪塔を仰ぎ、年輩者はゲートボールの合間に、開祖の偉業を偲ぶことができるめぐまれた環境にある。

国鉄の線路(今はJR西日本の高架)北側に道路を造るために墓所を移転したことを示す標石が確かに南の石垣内側に置かれていた。文面は以下の通り。

水野家墓地跡 県史蹟
福山初代城主水野勝成公の墓並びに父忠重公の墓三男成貞及び四代勝種公長男数馬の墓は元この地に建てられていたが都市計画に基づく道路建設のため北方に移転する
昭和32年5月1日 福山市

墓所が少し北へ移動したことを示す石碑

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岡山県和気郡和気町和気の大題目石

2013年12月04日 | 
富士見橋西詰から土手下の道(県道96号)を北東に進む。PIZZA屋を過ぎた辺りで巨岩が目に入り驚いた。

蚕霊乃碑と大題目石

どうやら文字が書いてあるようだ。私は県道奥の細道まで回り込み和気富士南麓の自然石に南無妙法蓮華経、蚕霊之碑という文字が彫られているのを確認した。

大題目石

大題目石の説明板

説明板には「…大正三年豊昌山本成寺(本和気)の檀家となった大阪市の田中佐平治氏が願主として落成した。…」と記されており、大題目石は大阪商人が本成寺(和気町和気53)に寄進したものだった。

大題目石周辺地図

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