昭和生まれの人間にとってメンマはラーメンの重要な具というイメージがある。確か子どもの頃はメンマのことをシナチクと言ったものである。イトーヨーカドーで味つけメンマが売られていた(80gが98円)ので購入した。セブン&アイが開発した商品を製造しているのは山形県天童市のミクロという会社だった。dancyu1995年12月号に小菅桂子さんがラーメンとメンマの関係について興味深いエッセイを寄せているのでついでに紹介しておこう。
…ラーメンとメンマの付き合いはいつ頃はじまったのだろうか。
十数年前に『にっぽんラーメン物語』を書くため、メンマの故事来歴を調べていたとき、「メンマは明治には日本へ来ていましたよ」という証言者が現れたのである。
丸松物産の当時の社長、現会長の松村秋水さんである。…早速松村社長に会いに出かけた。
中国では乾燥メンマを笋干スンカアという。
「うちはわたしの曾祖父さんのときから台湾で貿易の仕事をやっとったんですよ。わたしの父、先代の社長である郭松桔はメンマも輸出しておりました。メンマの輸出先は上海、天津、マカオ、香港だったといいます。わたしの父が初めて日本へ来たのは大正七年だか八年だったといいます。日本へ来て南京街へ行ってみたら、うちの商標登録であるマル松印の袋に入ったメンマが売られていた。親父はうちの商品が日本にあるのにびっくりしたそうです。…親父はその理由がわからないのでいろいろ調べたそうです。そうしたら大陸や香港に輸出したうちのメンマは、そこからまた船積みされて日本へ来て南京街で売られていることがわかったそうです。それならなにもわざわざ大陸や香港へ輸出する必要はないわけです。そこで日本と直接取り引きするようになったといいます」
「台湾は昔貧しかったから、豚肉を一週間も十日も煮込んで毎日食べてましたよ。そのときにメンマをぶち込んで一緒に煮ると、メンマに豚の脂がしみこんでおいしくなるんです」
松村さんはこう説明してくれる。しかし麺の上にのせて食べる習慣は昔も今もない。
麺とメンマの仲人は南京街の知恵者である。
明治期、横浜南京街に住んでいた華僑は華南の人々であった。…
メンマはその華南の人たちにとってもおふくろの味であった。…麺を商売にするならば素ラーメンより、上に具をのせたほうが高く売れる。しかしメンマと煮た豚肉は日本人に歓迎されなかった。だが筍の仲間であるメンマはみんなが大歓迎した。お馴染の食感だからである。しかもそれには異国の味がしみ込んでいた。そこでまずメンマがのった。次にのったのが叉焼である。…そして葱…。これが定着したのは明治期の南京街であった。…
…台湾にも中国にもメンマという言葉はない。あくまでもこれは笋干なのである。ということはこの名付け親は…いったい誰だろう?と思っていたら、「麺の上にのせる麻竹だからメンマ。…わたしの和製造語ですよ」。
答えてくれたのは松村秋水さんである。
実はご当人も、これはわれながらけだし名案!と早速登録すべくすぐ手続きをしている。
ところがこのせっかくのアイデアも、当時有名だったメヌマポマードに類似したネーミングだからということですげなく却下されてしまったのだという。昭和二十七年のことであった。…
ちなみにこのメンマ、メンマという言葉の登場以前はシナチクと呼ばれていたのである。
独特の食感と香りを持つメンマはビールのアテとしてもなかなかの優れものである。「やわらかい食材=美味しい」と思い込まされた現代人が顎と歯を使って味わう喜びを忘れがちなのは嘆かわしい風潮だ。

…ラーメンとメンマの付き合いはいつ頃はじまったのだろうか。
十数年前に『にっぽんラーメン物語』を書くため、メンマの故事来歴を調べていたとき、「メンマは明治には日本へ来ていましたよ」という証言者が現れたのである。
丸松物産の当時の社長、現会長の松村秋水さんである。…早速松村社長に会いに出かけた。
中国では乾燥メンマを笋干スンカアという。
「うちはわたしの曾祖父さんのときから台湾で貿易の仕事をやっとったんですよ。わたしの父、先代の社長である郭松桔はメンマも輸出しておりました。メンマの輸出先は上海、天津、マカオ、香港だったといいます。わたしの父が初めて日本へ来たのは大正七年だか八年だったといいます。日本へ来て南京街へ行ってみたら、うちの商標登録であるマル松印の袋に入ったメンマが売られていた。親父はうちの商品が日本にあるのにびっくりしたそうです。…親父はその理由がわからないのでいろいろ調べたそうです。そうしたら大陸や香港に輸出したうちのメンマは、そこからまた船積みされて日本へ来て南京街で売られていることがわかったそうです。それならなにもわざわざ大陸や香港へ輸出する必要はないわけです。そこで日本と直接取り引きするようになったといいます」
「台湾は昔貧しかったから、豚肉を一週間も十日も煮込んで毎日食べてましたよ。そのときにメンマをぶち込んで一緒に煮ると、メンマに豚の脂がしみこんでおいしくなるんです」
松村さんはこう説明してくれる。しかし麺の上にのせて食べる習慣は昔も今もない。
麺とメンマの仲人は南京街の知恵者である。
明治期、横浜南京街に住んでいた華僑は華南の人々であった。…
メンマはその華南の人たちにとってもおふくろの味であった。…麺を商売にするならば素ラーメンより、上に具をのせたほうが高く売れる。しかしメンマと煮た豚肉は日本人に歓迎されなかった。だが筍の仲間であるメンマはみんなが大歓迎した。お馴染の食感だからである。しかもそれには異国の味がしみ込んでいた。そこでまずメンマがのった。次にのったのが叉焼である。…そして葱…。これが定着したのは明治期の南京街であった。…
…台湾にも中国にもメンマという言葉はない。あくまでもこれは笋干なのである。ということはこの名付け親は…いったい誰だろう?と思っていたら、「麺の上にのせる麻竹だからメンマ。…わたしの和製造語ですよ」。
答えてくれたのは松村秋水さんである。
実はご当人も、これはわれながらけだし名案!と早速登録すべくすぐ手続きをしている。
ところがこのせっかくのアイデアも、当時有名だったメヌマポマードに類似したネーミングだからということですげなく却下されてしまったのだという。昭和二十七年のことであった。…
ちなみにこのメンマ、メンマという言葉の登場以前はシナチクと呼ばれていたのである。
独特の食感と香りを持つメンマはビールのアテとしてもなかなかの優れものである。「やわらかい食材=美味しい」と思い込まされた現代人が顎と歯を使って味わう喜びを忘れがちなのは嘆かわしい風潮だ。

