廃業した豆腐屋の先の辻(県道46号)に「0.3km 和気清麻呂公碑 和気氏政庁跡 ⇒」という標識が出ていた。辻を左折し東の方角へ進む。
![国道46号の標識](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/da/0b2156e56df0094cae6b58df2b085e97.jpg)
![標識に従い辻を右折し東へ向かう](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/05/44e4b59a269e49e6c67cdcc8ea8f69d5.jpg)
道端の右手に小学生の背丈ほどの石碑が建つ。表面には倉光三郎成澄之塚と刻まれている。この人物は平家物語などに登場する源氏方の武将・倉光三郎(成氏)を指すものと思われる。
![倉光三郎成澄之塚(表)](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/51/f818921dcf484ac37a05441a9840a159.jpg)
三郎は赴いた備前三石で酒を飲まされて(密かに平氏と通じていた)妹尾太郎兼康に刺殺されたのだが、何故かここ藤野に墓がある。裏面の文字から判断するに、三郎の葬儀が大寺院であった藤野寺(現・實成寺)で執り行われたのかもしれない。
![倉光三郎成澄之塚(裏)](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/99/e9c068555e692fe5ad627f0ea5c243da.jpg)
追記
後日、歴史書『西備名区』の中に倉光三郎が討ち取られた場所が藤野寺であるという記述を見つけた。塚はこの伝承に基づくものと考えられる。
妹尾太兼康
兼康、木曾征討に侍大將(と)して降りしが、北國の戰ひに、加賀の國の住人倉光三郎兼光に生捕れ、木曾殿に降りて二心なき躰に仕へける處に、平家備中水嶋合戰に討勝ければ、備中、備後、備前の者供、平家へ歸伏して彌勢は嵩みぬ、木曾此由を聞き三千余騎にて備中へ降る、兼康心に舊主を思ひ時節を待ける處に、中國の案内者を撰ばれて下りける木曾殿、壽永二年十月六日播磨路へかゝり、今宿に着、妹尾を先達て備中へ下しける、船坂山にて木曾殿に向つて、備中程近く候得は御先へ參り、御馬の草兵粮用意柄仕べしとて、子息小太兼道、等宗俊を相具して下りけるが、倉光次兼光を招きて言ひけるは、ヤア倉光殿、御邊に生捕れ遁難き命を生て再ひ本國に歸る、此恩山の如し、備中妹尾は上々田也、今度の勳功の賞に申給り下り給へ、願わくは打連進らせて、所をも治め進らすべしと云、倉光誠と思ひ、木曾殿に所望しければ、直に下文を賜はる、兼光悦んで兼康と俱に降る、妹尾計つて和氣の渡の東、藤野寺の古御堂に下り居て、兼康言ひけるは、妹尾は程近ければ處の者に申觸れて、御迎に參るべしと約束して兼康先に行き、所の親しき者を語らひ、其夜藤野寺に押寄て倉光を討てけり。…
![国道46号の標識](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/da/0b2156e56df0094cae6b58df2b085e97.jpg)
![標識に従い辻を右折し東へ向かう](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/05/44e4b59a269e49e6c67cdcc8ea8f69d5.jpg)
道端の右手に小学生の背丈ほどの石碑が建つ。表面には倉光三郎成澄之塚と刻まれている。この人物は平家物語などに登場する源氏方の武将・倉光三郎(成氏)を指すものと思われる。
![倉光三郎成澄之塚(表)](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/51/f818921dcf484ac37a05441a9840a159.jpg)
三郎は赴いた備前三石で酒を飲まされて(密かに平氏と通じていた)妹尾太郎兼康に刺殺されたのだが、何故かここ藤野に墓がある。裏面の文字から判断するに、三郎の葬儀が大寺院であった藤野寺(現・實成寺)で執り行われたのかもしれない。
![倉光三郎成澄之塚(裏)](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/99/e9c068555e692fe5ad627f0ea5c243da.jpg)
追記
後日、歴史書『西備名区』の中に倉光三郎が討ち取られた場所が藤野寺であるという記述を見つけた。塚はこの伝承に基づくものと考えられる。
妹尾太兼康
兼康、木曾征討に侍大將(と)して降りしが、北國の戰ひに、加賀の國の住人倉光三郎兼光に生捕れ、木曾殿に降りて二心なき躰に仕へける處に、平家備中水嶋合戰に討勝ければ、備中、備後、備前の者供、平家へ歸伏して彌勢は嵩みぬ、木曾此由を聞き三千余騎にて備中へ降る、兼康心に舊主を思ひ時節を待ける處に、中國の案内者を撰ばれて下りける木曾殿、壽永二年十月六日播磨路へかゝり、今宿に着、妹尾を先達て備中へ下しける、船坂山にて木曾殿に向つて、備中程近く候得は御先へ參り、御馬の草兵粮用意柄仕べしとて、子息小太兼道、等宗俊を相具して下りけるが、倉光次兼光を招きて言ひけるは、ヤア倉光殿、御邊に生捕れ遁難き命を生て再ひ本國に歸る、此恩山の如し、備中妹尾は上々田也、今度の勳功の賞に申給り下り給へ、願わくは打連進らせて、所をも治め進らすべしと云、倉光誠と思ひ、木曾殿に所望しければ、直に下文を賜はる、兼光悦んで兼康と俱に降る、妹尾計つて和氣の渡の東、藤野寺の古御堂に下り居て、兼康言ひけるは、妹尾は程近ければ處の者に申觸れて、御迎に參るべしと約束して兼康先に行き、所の親しき者を語らひ、其夜藤野寺に押寄て倉光を討てけり。…
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