水野家墓所と水野公園の境に一体の地蔵菩薩が祀られている。私は『聞書き東学区物語増補復刻版(平成二五年九月発行)』を読んでこの存在に初めて気付いた。
洞林寺の西角に石の地蔵菩薩がある。山陽線踏切があったころ、…あやまちの他に自殺もたびたびあって、昭和になっていつのころか、この地蔵さんが建てられた。
一つ東よりに、寺町・御船・入船・三吉方面の子どもたちの通学路の無人踏切があった。…一般の人も危ないというので警報機をとりつけた。それからはチンチン踏切というようになった。
事故者慰霊のため、ここにも地蔵さんが祀られた。


台座には徳風地蔵菩薩と彫られており昭和十二年四月に建立されたものであった。国鉄の踏切が存在した頃は痛ましい事故が度々起こっていたという話は親から聞いていたが、犠牲者を供養するために有志が地蔵を祀ったことは知らなかった。

踏切のあった地点を昭和五年の市街地図を用いて赤丸で示した。現在寺町と若松町との間で道は途切れているが、水野公園を縦断するかたちで道は続いていたものと思われる。今でもその痕跡を辿ることはできる。


洞林寺の西角に石の地蔵菩薩がある。山陽線踏切があったころ、…あやまちの他に自殺もたびたびあって、昭和になっていつのころか、この地蔵さんが建てられた。
一つ東よりに、寺町・御船・入船・三吉方面の子どもたちの通学路の無人踏切があった。…一般の人も危ないというので警報機をとりつけた。それからはチンチン踏切というようになった。
事故者慰霊のため、ここにも地蔵さんが祀られた。


台座には徳風地蔵菩薩と彫られており昭和十二年四月に建立されたものであった。国鉄の踏切が存在した頃は痛ましい事故が度々起こっていたという話は親から聞いていたが、犠牲者を供養するために有志が地蔵を祀ったことは知らなかった。

踏切のあった地点を昭和五年の市街地図を用いて赤丸で示した。現在寺町と若松町との間で道は途切れているが、水野公園を縦断するかたちで道は続いていたものと思われる。今でもその痕跡を辿ることはできる。


