筋鉄御門を抜けて左手に白い城が見える。やけに若者が多い。なるほど、新成人は城博物館の入場料が今日に限り無料なのだ。しかし、ターンして帰る者がほとんどだった(笑)
昭和20(1945)年8月8日はうだるような暑さだったと聞く。その夜、米軍の爆撃によって国宝だった城が焼失した。祖母はその様子を私に何度か語ってくれた。

現在の城は某政治家(故人)が関与する土建屋が再建したものである。戦前の写真と比較すると随分いい加減な造りで、市民にそっぽを向かれるのも当然なのかもしれない。余談であるが、この政治家は宮澤元総理に毛嫌いされて政治生命を絶たれた。
帰り道、石垣に長方形の穴が開いていることに気付いた。城マニアの藤波さんならばその目的を知っていることだろう。


たこ焼き研究家の熊谷さんが「粉もの」食文化の歴史と進化をわかりやすくまとめた力作。関西だけでなく関東の文字焼き、どんどん焼きなどにも言及しているのは流石だ。
たこ焼きは明石の(玉子焼きの)アイデアを取り入れて誕生したという推測は正しいと思う。
‥店の屋号は会津屋。これをみたとき、たこ焼きの原点はここにある、と直感した‥昭和初期に話をもどして……。たくさんのラヂオ焼き屋台が街角で子供相手に商売をしていたころ、もっとおいしくしようと、試行錯誤を始めたのが、会津屋の初代、遠藤留吉さんだった‥大阪でもタコは庶民の食材だった‥タコを入れてみたら、これまで試したどの具材よりおいしかった‥薄力粉は「バイオレット」(日清製粉)という一等粉を選んだ…留吉さんは迷わず、「たこ焼き」と暖簾を出す‥ラヂオ焼きから、肉焼きへ。肉焼きから、たこ焼きへ。一九三五(昭和一〇)年、留吉さん二八歳の秋のことだ‥
私が大阪のたこ焼きを初めて食べたのは中学2年生の時だった。中がとろっとしており、表面には醤油が塗ってあった。ソースが当たり前と思っていたのでショックだったが、素朴なおいしさに感動した。それまで自分が食べきたたこ焼きは団子や餅の出来損ないみたいなものだった。
北関東で一人暮らしをしていた頃、その地のたこ焼きがあまりに不味くて自分で焼くようになった。薄力粉をだし(横着する時は市販の顆粒)で溶くからあの旨さが出ることを経験的に知った。
この本を読んで、久し振りに作ってみようかな、との思いが生じた。

たこ焼きは明石の(玉子焼きの)アイデアを取り入れて誕生したという推測は正しいと思う。
‥店の屋号は会津屋。これをみたとき、たこ焼きの原点はここにある、と直感した‥昭和初期に話をもどして……。たくさんのラヂオ焼き屋台が街角で子供相手に商売をしていたころ、もっとおいしくしようと、試行錯誤を始めたのが、会津屋の初代、遠藤留吉さんだった‥大阪でもタコは庶民の食材だった‥タコを入れてみたら、これまで試したどの具材よりおいしかった‥薄力粉は「バイオレット」(日清製粉)という一等粉を選んだ…留吉さんは迷わず、「たこ焼き」と暖簾を出す‥ラヂオ焼きから、肉焼きへ。肉焼きから、たこ焼きへ。一九三五(昭和一〇)年、留吉さん二八歳の秋のことだ‥
私が大阪のたこ焼きを初めて食べたのは中学2年生の時だった。中がとろっとしており、表面には醤油が塗ってあった。ソースが当たり前と思っていたのでショックだったが、素朴なおいしさに感動した。それまで自分が食べきたたこ焼きは団子や餅の出来損ないみたいなものだった。
北関東で一人暮らしをしていた頃、その地のたこ焼きがあまりに不味くて自分で焼くようになった。薄力粉をだし(横着する時は市販の顆粒)で溶くからあの旨さが出ることを経験的に知った。
この本を読んで、久し振りに作ってみようかな、との思いが生じた。

東京から大垣に向かう夜行快速列車ムーンライトながら。名古屋に到着する時には全席自由席になっている。7~9号車が切り離され、1~6号車が大垣行となる。
運良くセミコンパートメント席(4人掛けのテーブル付きボックス)の窓側に座ることができた。通路には立ち客が目立った。名古屋から大垣までは約40分かかる。
夜明け前で外は真っ暗。腕組みをして眠る人、音楽を聴く人、読書する人、パンをかじる人など、どの人もお疲れモードである。列車の揺れがやけに眠けを誘う。「尾張一宮」の待合室でおっさんがベンチに寝ていた。
「木曽川」辺りで朝焼けを見た。オレンジ色の空に紫雲が広がっていた。薄もやのかかる「西岐阜」を経て長良川を通過し「穂積」に停まり、列車は終点を目指す。
大垣での乗り換え時間は5分。階段を上がり2番ホームに停まっている東海道本線(加古川行)に移る。乗客は脱兎の如く飛び出して行く。皆考えることは同じである(笑)
ここでもすんなり座れた。私は目を閉じ、フーと息をはいた。それからまもなく深い眠りに入った。

老舗の場所を見つけたのは私の方だった。旧友は苦笑いして本家に入った。既に待ち客が椅子に座っていた。我々はすぐに2階に上がることができた。
店員が「今日はご飯が売り切れました…お客様、そばアレルギーはありませんか」と言った。最初は何のことかわからなかったが、打ち粉にそばを使用しているとのこと。
メニューを見て(名古屋コーチン)親子煮込を注文した。10分ほどして店員が土鍋を持ってきた。蓋をひっくり返して取り皿にする合理性。七味はリコーダー大の竹筒に入っているのが興味深い。

講釈好きの関西人がうどんを食べて「芯がある」とか「生っぽくて硬い」と感想を述べていたが、生粋の名古屋人の言葉を借りれば「これが普通」。関西のひ弱なうどんとは全く別の食べ物なので、比較するのがそもそもおかしいのである(笑)
八丁味噌の風味を最大限生かす「だし」に脱帽。やはり本場の味噌の使い方は一味も二味も違うと感じた。この「だし」をご飯にかけて美味しそうに食べる地元の人に親近感が湧いた。
名古屋の伝統的な食べ物は私にはすんなりと受け入れられた。友は別れ際にこう言った。「これに懲りず、また名古屋に来てくれ」と。
今回の旅では多くの発見と感動があった。視野を広げるには、自分の住んでいる街から外に出るのが一番手っ取り早い。固定観念を覆すのが上手い名古屋にはこれからも足を運ぶだろう。
世話になった友人に「欲張らずに少しずつ名古屋の魅力を理解して行こうと思う」と伝えた。

犬山遊園駅から城までは徒歩で15分程度である。三光稲荷神社前に露店が出ていた。国宝の犬山城は松江城と同じ位コンパクトであった。友は「登る前に休憩しないか」と言って、茶店で甘酒を啜った。

城の階段はとんでもなく急で、酒を飲んだ中年にはきつい運動だ。ヒーヒー、ハーハー言いながら、天守に辿り着いた。係員が「危険なので手すりにもたれないで下さい」と口酸っぱく注意した。
朽ち果てた木に体重をかけては無傷では帰れないだろうと悟った。そして眼下に広がる景色の美しさに暫く見とれていた。天守閣に登る価値はここにあると言い切ってもよい。

見ず知らずの老人が「写真を撮ってあげるよ」と言ってくれたので、素直に厚意に甘えることにした。雄大な木曽川をバックにした私の表情は少し強張っていた(笑)
帰り道、小雨が降り出して冷たい風が吹きつけてきた。「やっぱり雨男だな」との突っ込みに苦笑しながら、犬山橋に向かって歩いていた。
