寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

小網町の宿泊施設を眺める

2009年09月20日 | 

私は再び天満川右岸を北に進んだ。「連れ込み宿Y」のもう一つ先の角を右に曲がる。

天満川河畔のビジネス旅館

和風のビジネス旅館「S」は落ち着いた雰囲気である。「三光寺」周辺には全く別種の宿が存在していた。

赤線の遺構と思われる建物

旅館から程近い所に興味深い建物を発見した。左側はスナックとして使われていたようだが、右側の和洋折衷の方は「赤線」の遺構である可能性が高い。1階の壁の窪みには一体どういう意味があるのだろうか?

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河原町地蔵尊に手を合わせる

2009年09月19日 | 
「高信寺」から西へ約90mのところに「河原町地蔵尊」がある。古くから火除けの神様として地元民の信仰を集めてきた。本堂入り口の支柱左に「満願成就 火除守護」、右には「学業成就 安産繁栄」と書かれてある。赤い涎掛けをした地蔵の前に賽銭箱があるのだが、監視カメラが設置してあるのを見て「心無い人間は増えるばかりだ」と寂しくなった。

本堂には同町の原爆犠牲者並びに「竹の鼻刑場」の刑死者を祭っている。地蔵尊は明治の初めまで「奥川医院」の少し南にあったということだから、刑場はその近隣にあったと考えてよかろう。「忌み地」の痕跡を消し去ろうとする風潮が強い中、詳しい由緒書きを残しているのは珍しい。やはり河原町には「歴史を直視する度量」のある人達が多いのだろう。

本堂左脇に安置された被爆石灯籠には嘉永七年の文字が読み取れる。石以外は燃え尽きてしまった惨状を思い浮かべて「平和大通り」を渡り北に向かった。

※備考 竹の鼻(中区河原町)について

 船入村内の河原町にあった地名で、藩の材木屋敷が設けられ、そのうちには御歩行組以下の多門が建てられていた。…この地の奥には刑場があり、寛文三年(一六六三)以前より処刑が行われていたとされる(知新集)。
 城下ではこの地のほかに刑場として古江村樽ヶ崎(現西区)が使用された。
 「広島県の地名 日本歴史地名大系35」

被爆した石灯籠

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広島市の消えた町名(西遊廓周辺)

2009年09月19日 | 

私は舟入町から隣町に移動した。現在は河原町という名称だが、昭和40年3月末日までは別の名前で町域も全く異なっていた。

「平和大通り」の南側を例にして考えてみよう。西平和大橋西詰から西へ移動。まず本川左岸寄りに西地方町南端部(現・河原町1の北端部)。続いて西新町(現・河原町2)。電車通りを越えると小網町(現・舟入町1~3)。更に進んで天満川右岸の緑大橋東詰に到着。

河原町から電車通り(舟入町方面)を望む

4階建ビルの1・2階が「高信寺」である。寺の裏道を西に進む。道から右手が旧西地方町、左手が旧河原町、辻の先の信号機がある辺りが電車通りである。激安弁当販売の元祖といわれる「GOGOやまぐち」の車庫(辻を越えた右角)から電車通りの近くまでが旧西新町だ。

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広島西遊廓跡を歩く(後編)

2009年09月18日 | 

前述の「続々がんす横丁」の「舟入町」の項には昭和初期の西遊廓に変化が生じたことが記されている。

 西遊廓の貸座敷にダンス・ホールができたのは昭和四、五年か、あるいは七、八年ごろのことである。…昭和十七、八年頃にはだんだんなくなっていった。当局からのお達しで、これらのホールは昔の日本座敷に復元された。

 また、「サービス」という言葉が人の口にのぼって流行したのも昭和七、八年ごろで、ダンス・ホールの流行したころと同時であった。貸座敷の楼主たちが、「スリッパを揃えて、寿座の松つぁん(当時人気のあった下足番)じゃないが、お客のサービスというものをせにゃならん」といったもので、楼主自身が踊りにきた客に香水をふりかけたり、ホールの気分をわきたたせるためにテープを投げたりしたものであった。

 そして「おしぼり」というものを客にだしたのも、このごろが始まりである。社交ダンスというものを始めてやる客の相手は、それぞれ貸座敷の女将がつとめた。

遊廓経営者が莫大な財を費やして貸座敷を改築した動きには新しい物好きの国民性があらわれていて苦笑を禁じえないが、ライバルの同業者に遅れをとらず設備投資をしてお客の関心を引き利益を生み出そうという楼主の思惑がみてとれる。

遊女が稼ぐ花代によって妓楼は益々栄え、周辺の料理屋(台の物を運ぶ)や地回りの用心棒らも恩恵を受けて懐が暖かかったはずだ。そして一番ニンマリしていたのは広島市の税務署である。

今の常識で「遊里」=「悪所」と言い切るのはたやすい。しかし、気の毒な身の上の遊女がいたから経済が発展した一面があることを見落としてはならない。

話をもとに戻そう。2階の窓ガラスに精巧な花びらの細工が施された歴史的建造物(料理屋と酒場が計4軒入って営業)が舟入町に存在する。この建物の先の辻より北側が旧小網町エリア(平和大通りによって分断された南端部)で、更に北進すると「大通りの緑地帯」にぶち当たる。この右手が劇場「寿座(※)」跡になる。また辻を右に折れて電車通りを横断したところに「小網町交番」があった。

戦前の西遊廓は後発の東遊廓よりも格上だったが、敗戦後その地位は逆転して衰微を続け「赤線最後の日」を迎える。歓楽街の中枢は急速に西から東へ(広島駅寄り)と移ったのである。私の学生時代、東遊廓の流れを汲む弥生町のマンションでは秘め事が公然と行われていたが、舟入町や小網町で同様の話は全く耳にしなかった。

※小網町の寿座
 明治三十二年には劇場規則に照らして改築され、名を寿座と改めた。寿座は総坪数七百二十坪(二千三百八十平方メートル)、間口三十三メートル、奥行七十三メートル余、そして定員は千五百三十八人であった。内外ともに木造ではあったが、広いりっぱな舞台をもっていた。戦争中は映画館に転向していた

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広島西遊廓跡を歩く(中編)

2009年09月18日 | 

薄田太郎さんは「続々がんす横丁」で「上野」というタバコ屋についてかなり詳しく書いている。よほど思い入れのある店だったのだろうか。

 …以下は土地の古老からうかがった大正から昭和五年にかけての昔話である。

 舟入町に万花園があった。筆者のこども時代の記憶では、霧島の花が庭園に咲いていたことを思いだすが、ぼたんの花も並んでいた。この万花園は後に羽田別荘になったが、この万花園につづいたあたりを二号地といって、西遊廓の前身があった。その二号地については呉市吉浦町在住の読者から次のメモを寄せられた

  「私の懐かしい思い出の一つは、舟入町の二号地です。その当時としては珍しい青白いガス灯が樹々のこずえを照らす下を散歩したが、この界わいの夏の夜は忘れられない光景でした」

 この二号地には、南から北へ向って一本の大通りがあって、両側に貸座敷が並んでいた。万花園の敷地を中心にした二号地の右側に上野というタバコ屋があった。このタバコ屋は、この色街人から喜ばれた湯タンポを貸した店でもあった。この湯タンポについては作家畑耕一さんからも話を聞いたことがあった。遊廓で愛用された湯タンポとなると、そぞろ昔の風情がしのばれてくる。

通りを北に向かって歩き、舟入町が「マンション」で埋め尽くされつつあることを知った。この界わいにまだ「赤線時代の建物」が残っているのは奇跡に近いのかもしれない。

余談になるが、この位置から東に約40m行ったところにかつて「みはらし湯」という銭湯が存在した。戦前の「不夜城」を見事に言い表したネーミングセンスに脱帽だ。遊び人はここで垢を落として迷宮に消えたのである。

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広島西遊廓跡を歩く(前編)

2009年09月17日 | 

料亭「羽田別荘」の北側の道を東へ進んだ。この辺りは爆心地から約700mの距離で壊滅的な被害が出た。

料亭を例にとってみると、庭池に面した「四阿(あづまや)」で朝食をとっていた軍人がその下敷きになり真っ暗闇から命からがら這い出して避難した記録が残っている。戦前の豪勢な「遊廓」も同様に焼失したわけで「赤線」として復活するまでは大変な苦労があったと推測する。

ヘンテコリンな造りの「小料理屋」の前で立ち止まり「特殊飲食店街」の微かな残り香を嗅いだ。店の前から「平和大通り」に向かって北に伸びる道を見て「メインはここだな」と確信した。

「西遊廓」は舟入町から小網町にかけて整備されたが、敗戦後に「平和大通り」ができて小網町は南北に分断された。「悪所」に隣接した歓楽街の西新町と西地方町も同様である。

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観船橋を渡り中区舟入町に入る

2009年09月16日 | 

観船橋西詰から天満川を望む。中央に小船が浮かんでいた。対岸は中区舟入町である。

「立派なリバーサイドホテル群だ。子どもには見せられんな」

苦笑を浮かべて橋を渡り左折。川沿いを北に向かって歩き「連れ込み宿C」の角を右に入る。私は「遊里」跡に近づいていた。

天満川右岸(観船橋東詰)

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観船橋西詰に到着(広島市西区東観音町)

2009年09月16日 | 

東観音町の銭湯周辺をぶらつき緩やかな坂を上るとどん突きである。目前の巨大な建物は割烹「う越久(うおきゅう)」。80年近い歴史とHPで宣伝しているので昭和初期の創業と考えてよいだろう。

割烹の背後には「天満川」が流れている。ここから左折して「観船橋(みふねはし)」西詰に着いた。古びた「連れ込み宿」が材木置場跡に建っていることを知る人は少ない。

観船橋西詰

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真言宗「永徳寺観音院」

2009年09月15日 | 

広島市西区西観音町の「銭湯跡」から東観音町に入り大きな寺院を見つけた。慶長6(1601)年開基の「観音院」である。

この地に観音堂が建てられた頃から周辺は観音村と呼ばれるようになり大正5年に観音町となる。その後の町名改正で東・西などに分けられた。

「観音院」の山号は「合法格物至山」、略して合格山。非常に縁起のよい名前から受験生に人気がある。

意外にも観音町は「広島菜」の発生の地であることが「続々がんす横丁」に記されている。今では想像もつかないが、当時は広大な農地(新田)があったのだろう。

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廃業した銭湯(広島市西区)

2009年09月15日 | 

私が大学生だった頃(昭和の末)は風呂なしの下宿が当たり前だった。広島市中区東千田町の大学周辺にはたくさんの銭湯があり、そのうちの3つをよく利用した。

ちょっと記憶が曖昧だが、入浴料は230円位(洗髪料は50円プラス)だったと思う。私は「広島刈り」にしていたので洗髪料を取られることは滅多になかった(笑)

年号が平成に変わる辺りから大学移転が進み出し市内の銭湯は徐々に姿を消し始めた。そのスピードが上がったのはバブル崩壊後だ。私が通った銭湯は平成10年頃迄には全て廃業した。

西区の「雪舟湯」の前に立ち「ここは6の付く日が休みだったんだな」と呟いた。廃業した時期は不明だが、おそらく平成初期までは営業していたのだろう。

北側にあった県営住宅が取り壊されて更地となり、かつての銭湯だけがポツンと残っている。私は「時の流れの残酷さ」をヒシヒシと感じた。

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イチロー選手の偉業を称える

2009年09月14日 | 日記
まずは「9年連続200本安打達成、おめでとう」と言いたい。ショートへの内野ゴロをヒットにしてしまうのがいかにも彼らしい。

今シーズンは胃潰瘍のため開幕からスタメン出場することができず記録達成が危ぶまれたが、復帰後は(2試合連続ノーヒットなしで)安打を積み重ねた。

攻略を練る投手に打ち勝つためにイチロー選手は常に打撃フォームを進化させている。マウアー選手(捕手)がインタビューで「イチローは短時間で修正のできる選手。彼に同じ攻め方は二度と通用しない」と語っていたのが印象的である。

WBC、韓国との最終対決、延長10回のタイムリーヒットは歴史あるベースボールの名シーンになった。ガッツポーズを決めたい場面であえて己の感情を抑えたところに精神面の成長を見たような気がする。

「打てないイチローなんて変えちまえ」と低俗なメディアが叩く中で結果を出せたのが大リーグでの打撃好調の一要因と考える。今後、肉体の衰えを心配する向きもあるが、彼はきれいに年を重ねるように思う。

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水気の多い梨をかじる

2009年09月14日 | 家飯

秋の果物の代表格が梨である。幸水、豊水などの糖度の高い梨が近頃では人気と聞くが、私が最も好きなのは二十世紀だ。爽やかな酸味が甘ったるさを抑えてくれる。値段も手頃なこの梨は水分が多く食後のデザートには最適だろう。

日本料理における梨は影の薄い存在だが、韓国では欠くことのできない食材だ。ユッケの脇に添えたり、果汁を焼肉のタレに加えたりする。体に良い梨をさり気なく料理に使う点は流石だ。

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大相撲秋場所初日を観る

2009年09月13日 | 日記
両横綱は白星発進だったが、千代大海に早くも土がついた。この人は角番を行ったり来たりで引退の二文字が常にちらついている。若手も関脇手前で足踏みをしているように見える。

日本人力士は精神面の弱さに加えて怪我が多いのが問題だ。やはり名力士になるためにはイチローのように怪我を回避する術を会得しなければならない。

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ビートルズのリマスターCD

2009年09月13日 | 日記
ビートルズのリマスターCD発売に伴い、NHKでは12日深夜ビートルズの特番を放送した。私は眠いのを我慢しながら最後まで見た。古典という枠にとどまらない楽曲が多いことに改めて気付いた。

さて私が選ぶアルバムベスト3はこうだ(学生時代はこの反対だった)。

1位:ホワイトアルバム
2位:ラバー・ソウル
3位:アビー・ロード

これらはいずれ買い直すつもりだが、特に買い急ぐ意味など無かろう。久々にビートルズのベストを聴き非常にコーラスの上手いグループだと思った。ラバーソウルを2位に挙げた理由はそこなのだ。

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乾いた街に待望の雨が降る

2009年09月12日 | 日記
明け方から降り始めた雨がまだ止まない。お盆明けから中国地方は好天に恵まれていた。まとまった雨が降ったのは8月15日以来で実に28日ぶりになる。

9月に入って朝晩はめっきり涼しくなったが、日中は残暑が続いている。これで一気に秋らしくなるだろう。仏壇に青みの強い梨を供えた私は乾き切った街に潤いが戻ったことを確認して清々しい気分になった。

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