私達はスナックを出て有名な「料亭」の前を通り過ぎた。Hさんは三次会の会場として築80年以上の「格子戸の家」を選んだ。
内部は大幅に手が加えてあったが、天井が予想以上に低いことがわかった。奥の座敷で冷たいビールを飲みながら「沢村貞子」似の女将と話をした。
昭和一桁生まれの彼女は袋町の全盛期について差し障りのない範囲で教えてくれた。
「小料理屋で芸妓さんとお客さんが同伴したホステスがかち合った時の目の戦いは凄かった。芸で身を立てる女性のプライドをひしひしと感じたもの。芸妓さんは鼻であしらう感じでした。残念なことにその後、町から芸妓さんはいなくなって寂しい限りです」
「芸は売っても体は売らぬ。それが○○芸者の心意気ってフレーズがありましたね。私の故郷でも最後の芸者が昭和40年代まではいたようです。もっともその人は枕芸者だったと聞いてます」
「ウチの近くにKといううどん屋がありますが、先代の作るうどんは本当においしかった。1週間食べても飽きないくらいに。だからよう繁盛してましたわ。今は経営者がかわってます」
初対面の女将に私は妙な懐かしさを感じていた。彼女の顔つきが気の強い祖母に似ていただけでなく、しゃべり方までそっくりだったからである。祖母と最後に短い言葉を交わした1●年前の光景を思い出さずにはいられなかった。
「例のうどん屋に寄るか?」
「ええ、もちろんです。早死のもとになるラーメンは真っ平ごめんですが、うどんならば付き合いますよ」
私達は女将に礼を言って店を後にした。


Hさんは某ビルのスナックに私を案内した。ママはHさんの顔を見るなり「久しぶりやね」と声を掛けた。水割りを飲みながら交互にカラオケを歌った。非常にマニアックな選曲だが、昔の歌には強い生命力があるし、歌詞の重みが違う。
歌の合間に遊里が賑わっていた頃の話を伺うことができた。
「私この仕事をする前は近くの●●に勤めてたんよ。で、そこから夜の袋町がごった返してるんがよう見えた。それが朝になると嘘のように静かになって…だからおかしな町やと思うてたわ(笑)」
「不夜城ってやつですね」
「そうよ。それが今や、この有様。今日は閑散としてたやろ。まあ平日はもっとマシよ」
「確かに袋小路を行き交う客をあまり見なかったです。やっぱり家で飲む人が多くなったんでしょうか?」
「不景気やからね。でも一番の原因は飲酒運転の罰則が厳しくなったからと違うやろか」
「どの飲み屋でも同じ意見を聞きますな。昔は少々の飲酒運転はやったもんだが、今は絶対無理ですからね」
「飲酒で捕まったら一生の終わりや(笑)」
気さくなママの話は非常に面白かった。長居をしても良かったのだが、年配の常連客が入って来たのでHさんは「次行こう」と言って席を立った。

Hさんがつまみをあれこれ頼む中、私はひたすら喋っていた。
「瀬戸内から遠くに出たことのない料理人がつまらんのは鮮度の良さに助けられてまったく頭を使わないことですよ。海に近いという利点に胡坐をかいているだけで新たな挑戦には無関心みたいですわ(笑)。ちっとはこっちの食文化を見習ったらいい」
私の暴言にHさんは黙って笑っていた。賢い人は「受け」が上手いのである。我々が一緒になると郷土料理の話題が大半を占める。例えば雑煮に丸餅を使うのは滋賀も広島も同じだが、だしは全く異なる。Hさんの家では鶏だし(醤油味)であると聞いた。私の家は元日、二日がすまし(鰹節+昆布+煮干)、三日目は味噌味にして変化をつける。
すき焼きの具材について話が盛り上がった時点で客は6人になっていた。飲み始めてから既に2時間が経過していた。「次は元色街で飲み直そう」と言われて私の目はギラギラと輝いた。川べりの歓楽街までは歩いて約10分の距離である。


芸予地震が発生したのは平成13(2001)年3月24日(土)のことである。自宅の1階で読書をしていた私は大きな横揺れを感じ驚いた。すぐに止むとばかり思っていたが、予想に反して揺れは1分以上続いた。家が倒壊する最悪のケースを思い浮かべながらも結局外に出ることができなかった。
後から知人に聞いた話ではイトーヨーカドーで買い物をしていた客が一斉に出口に向かって走り出したということだからM6の地震がいかに人々に恐怖感を与えたがわかる。町の様子を確認するために玄関を出た私もしばらく生きた心地がしなかったほどである。
あれから8年が経ったが、防災意識はあまり高まってはいない。非常食などの準備は不十分だし、本棚の固定すら行っていない状態だ。
ボチボチとできるところから手をつけていかねばならぬと防災の日を迎えて思ったのである。
後から知人に聞いた話ではイトーヨーカドーで買い物をしていた客が一斉に出口に向かって走り出したということだからM6の地震がいかに人々に恐怖感を与えたがわかる。町の様子を確認するために玄関を出た私もしばらく生きた心地がしなかったほどである。
あれから8年が経ったが、防災意識はあまり高まってはいない。非常食などの準備は不十分だし、本棚の固定すら行っていない状態だ。
ボチボチとできるところから手をつけていかねばならぬと防災の日を迎えて思ったのである。
